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あなたと出会えたご縁に、心からの感謝を。
先月、友人が亡くなりました。
もう何年も会っていなかったけれど、勝手に「心の師」とあおぎ、ときどき美味しい日本酒を送りあう、そんな付き合いをさせてもらっていました。
闘病は数年間、続きました。頭がきれ、いつも美しく小気味好い言葉をつむいでいた彼は、ひたひたと近づく「この世界との別れの足音」をどのように聞いていたのでしょう。
私にできることは、SNSでメッセージを送ったり、手紙を書いたり、下手な刺し子のふきんを送ることくらいでした。「肌触りがいいから、いつもふきんで顔を拭いてもらっているよ」と優しいメッセージも忘れない人でした。
彼が亡くなったという報せを聞いたとき、お葬式に駆けつけることもできました。でも、どうしても私にはできませんでした。
「急に押しかけたところで、お返しやら対応やら、奥様に迷惑をかけるのではないか」そんなもっともらしい言い訳をして、その機会を逃してしまいました。
しばらくしてから、SNSを通じて奥様からメッセージが届きました。生前はお酒をありがとうございました、なつさんと飲みに行ったことがとても楽しかったと、いつも話していました。そんなふうに、私への感謝がつづられていました。
そのメッセージを読み、ようやく御供えを送ることができました。職人さんが一つ一つ手でろうを固めつくる、和ろうそくを選びました。表面には季節の植物が描かれているものです。
お店のオンラインショップから購入したので、手紙を添えることはできませんでした。手紙は別に書いて、事情を伝えればそれで済むことなのに、それもできませんでした。
すると、また、奥様からメッセージが届きました。「とてもきれいなろうそくだったので、火をつけるのをためらいましたが、つけてみました」と、ていねいな感謝のメッセージが届きました。それと一緒に、写真も送られてきました。
そこには、遺影となって微笑む友人の姿がありました。
現実が、そこには写っていました。
「ひとは亡くなれば、一つの世界に行くだろうから、そこで会えるよね」
「東京に行くタイミングがあれば、その時に手を合わせよう」
「長い闘病だった。お疲れ様と伝えたいな」
心を整えるために考えていたことは、ただの強がりでした。
私はその写真を見たことで、初めて泣くことができました。そして、ようやくnoteに言葉をつづることができました。
「彼の分まで生きる」そんな大げさなことを考えるのもなんだか違うので、私は私の人生をまっとうしようと思います。これからも、よりよく生きる道と、周りと自分を大切にする生活を送る。これだけを考えて生きていきます。
ありがとう。
あなたと出会えたご縁に、心からの感謝を。
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