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初夏の諦め

今日は雨がすごかった。

夏の始まりによくある、夕立だったのだろうか。

白い稲妻を走らせて、昼間あんなに晴れていた空は

急激に機嫌を損ねていった。


昨年の終わり<春の死>という日記をつけ

それから1年ほど経った。

昨年の私は春の暖かい日差しを窓辺に感じながら、

執着が消えた解放感と切なさに泣いていた。


自分が10年近くに渡り集めていた社会性だったり努力だったり責任という固執を手放してみると

自分には本当に何もなかった。何もない分、幼い頃のままの素直な感情が蘇ってきた。「あれが好きで、これが嫌いで、こんなことが得意だった」そんなありふれた感情だったのに私にはとても輝いていて生々しくて愛おしいと思えるものだった。

誰かが憧れる肩書きや経験、社会性を通じて誰かに喜ばれることよりも

私は「私はこれが好き、これが嫌い」という感情が自分の胸の中で湧き立つのがとても喜ばしく、かけがえがなく、一等大切に思えた。

そんな基本的な感情を見失うくらい自分は人生を一生懸命誰かのために使ってしまったのかと思うと誰のせいでもなかったのに私は酷く辛かった。



気づいてしまった感情を捨てることが出来ずに

もうここに居られないから、新しいところに出ようと


いろんなものを置いて手ぶらで世界に出かけた。


何も持っていなかったし、どこに行こうかも考えていなかったけれど

気づけば感情のまま1年分の新しい過去ができていた。


表現することが昔から好きだった。ただ私は間接表現が好きなのだ。表現とは昇華であり湧き出た感情、特に琴線が震えるような感情を口に出すことは作品を作る絵具をすり減らす行為であり、誰かに届けてはいけないと思っていた。

それは作品にだけこっそり込める私だけの秘密のエッセンスだと。


それが行き過ぎて口頭と心のうちがずいぶん乖離してしまっていたのかもしれない。


春の死から1年後、私は今現代アートの世界に少し足を踏み入れた。

幼い頃からの念願だった<自分だけの自分になること>

唯一無二であり、それは自分のためになるもの。

その世界に少し踏み入れて分かった。感情を秘密になんてしていられない世界だ。

どんな感情も湧き立つまま自分とすりあわせて「私はこうだ」と主張しなければいけない。


何回も自分と向き合って、作る作品が自分と整合性があるかずっと問われ続ける。作った作品が「これは本当にあなたなのだろうか」と問いかけてくる。

作品に嘘をついてまで作れないのだ。売れそうかどうか、とかそんな事を考えて作品を作るくらいなら作らない方が純潔だ。


そうやって出来たのがこの作品だ

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作品名:神の遺伝子
素材: 墨,和紙,筆
サイズ:40×55cm
2021.6.4-6 
ART SHODO FESTA 出展作品
©︎いずみなつみ 
無数の線により神の遺伝子を構成する。
自動筆記による線は直線はなく全てうねりをあげている。
このうねり一本一本の線全てが文字である。
このうねりの文字は神社等で使われている神代文字
-阿比留草文字-を模しているが、その正体は光である。
光の正体は科学的に分析すると周波数の波であり、
この周波数を無数に書き記しながらも、俯瞰してみると
物理構造のXXXYを可読することができる。
虫の目では筆と墨と和紙を使い線と余白の美、
一回性という古来からの書のスタンスに順じながらも、
鳥の目では光の周波数や遺伝子という普遍的でグローバルな記号を現している。
潮の目は現代アートとしての書とは何かである。
鳥の目では光の周波数や遺伝子という普遍的でグローバルな記号を現している。
潮の目は現代アートとしての書とは何かである。


「これは書なのか」と聞かれて「書です」と答えた。

何故これが書なのか。多くの書の作品は太い文字とパッションを紙にぶつける井上有一スタイルの上にある。私はそれだけが書ではないと言いたい。

細い線や曲線もまた書である。

⚫︎線をひくアクション(運動性と時間)

⚫︎墨と和紙を使った一回生(一発勝負)

⚫︎文字を書くという意図によって作られる形

⚫︎作品を観た時に浮かぶのが絵

作品を見た時に浮かぶのが絵というのはかなり主観的になってしまうが、

通常文字を読んだ際脳内では絵が現れ、絵を観た時には字が現れる。

例えば「りんご」と書くと頭には赤くて丸い果物のイメージがわき起こり

「赤くて丸い果物のシルエット」の絵をみると「りんご」という文字が浮かぶ。


遺伝子を書いているし、線を書いている。無数の線になったら絵になるなんて決まりはないのだ。


ただ私は絵と書の融合を目指しているのでこの「絵なのか」「書なのか」の問題が起こるのは非常に嬉しいのである。


そしてこの作品の中に私は確実にいる。一本一本の線の中に私がいる。一本の線がsignでもあるのだ。どこかでまた書くかもしれないが、私は幼い頃から直線が苦手だった。このうねった線は自分らしい線なのである。




一度空っぽになった心の中に沢山の線が増えていく。嬉しい線、悲しい線。

百の言葉より一本の線だと篠田桃紅さんは言っていた。


そんな1本を連ねた作品は私の人生である。



こうして胸いっぱいに広がった線を眺めて

私はやっぱり諦めた。


感情を諦める事を。

諦めた。


日記を書いているうちに窓から雨足が止んだような気配がする。

春の死、

初夏の諦め、

秋に向けて、


私は走る。



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