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くだらないの中に

 何かが物足りないんだ、と思うとき、だいたい足りていないのは「非日常」の時間だったりする。ハッとして、立ち止まる。
 このまま同じような日々をただ重ねて、年老いるのだろうか。
 わたしは、ルーティンワークに埋没してはいないだろうか。
 他の道はないのだろうか。もしかしたら、もっと他に・・・・・・。

 いまは社会全体の自由度がとても低いから、同じようにつらさを抱えた人がいるのかもしれないな、と思っている。
 わたしはどうしているのかというと、オンラインライブや新しい音楽が変わらない日々に「非日常」を届けてくれている。新しい楽器も増えた。エッグマラカスやカズーは、場所をとらず安価でいい。これまでの生活にはなかったし、日常を圧迫しない。とてもいい。 
 

 昔、とある病気で入院中、わたしは非日常の中にいた。
 必要最小限のものしかない病室、窓から見える景色、身体に繋がれた管、家族ではない人たちの声。さざめき、独特の匂い、光。
 院内環境という非日常をどこか楽しみながら、一方で同じこと──診察、食事、歩行、就寝──の繰り返しに飽きていく。そうしていつしか日常を求めるようになっていった。
 あの中で、わたしはどれほど「日常」を愛おしく思っただろう。会話、学び、草木を揺らす風、車の行き交う音、街の明かり、店頭の呼び込みBGM、それらすべてのとるに足らないような「当たり前」を。
 
 ささやかなエンターテインメントが、日常への翼になった。たとえばそれは、有料カードで見られるテレビだった。売店に並ぶクロスワードも、院内図書館の書物も、それらはみなルーティンの外へ飛ぶための翼だった。
 院内でいかに意識を「日常」や「楽しみ」に向けるか、わたしは確かにあの時学んだ。それは後年、しっかりと活かされることになる。

 
 日常にも、非日常にも、反復がある。繰り返しがあまりに続くと、疲れてしまう。延々と同じビートを聴き続けてはいられないように。
 日常の中のちょっとした非日常、非日常の中のちょっとした日常が、人を鮮やかに生かすのかもしれない。
 派手でなくても、高尚でなくてもいい。くだらなくていい。くだらない、くらいがいい。どうしようもない日々の隙間に、どうしようもなくくだらない楽しみが欲しいのだ。そして大切なことはきっと、「くだらない」の中にある。

 
 笑いあったり、声を上げてはしゃいだり、そんなことが難しい日々が続く。
 だから意識を「楽しみ」に向ける。アンテナを時々違う方角に向けてみる。サーチして、合わせる。
 回診、ベッドでたくさんの医療従事者に囲まれて「うん、これは姫みたいだな」と心で嘯いた日を思う。くだらない楽しみを、わたしはいつだって見つけることができる。新しい趣味を探すことさえできる。
 そうありたいと思いさえすれば、意識は自由に旅をする。そんな風に思えるうちは、きっと何とかなるはずだから。

 
 
 
どうにもならない時は、専門家を頼るとき。
どうか、誰も無理しすぎないで。
 
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」