伝え方と伝わり方、痛み
ピンクリボン啓発ポスターのデザインが、Twitterで物議を醸している。ひとしきり考えたあと、同じ病名を経験してきた当事者たちの声をひとつひとつ辿って読んだ。
福引と乳がん罹患、同じ3文字「まさか」でも正反対の強い感情を含むものを結び付けたそれは、実感を伴う人間にとってはかなり厳しいと思う。ガラポンの当たりと病気の発見は同列にはない。
そのふたつが似通っていると作者や選者は何故思ったのだろう、と考えた時、キラキラワードにマスキングされがちなこの病を取り巻く風潮が頭に浮かんだ。
「いいこと」と「病気」を紐付けるのは、「キャンサーギフト(の日本ならではの語義)」にどこか似ているような気がしたのだ。ああまたか、とひとつ溜め息を漏らす。
これまでにも、同じコンテストの選出作品は当事者の間で度々話題になってきた。あまり良くない意味で、だ。女性を「家族のお世話係」に見立てるもの、検診に行けないことと「怠惰」を結び付けるようなもの、ルッキズムの影が見え隠れするもの・・・・・・。
今回これまでになく批判が大きなうねりになっているのは、もしかしたら積み重なったものの爆発という側面もあるのではないかと思っている。
デザインした側に悪気が一切なくても、大勢の目に触れるセンシティブイシューの制作物は非常に難しい。
特に公的な意味合いの強いものは、触れる人が多い分だけ難しい。啓発が難しいというのもそれで、高い効果を狙うとあっさり踏み外してしまう。キャッチーであればあるほど棘が生じ、端的であればあるほど本来の意図から離れたhidden messageも増える。
だが、手堅く無難にまとめると広がりにくいのも事実。そのバランスが極めて難しいのだ。
わからないことは仕方ないとは思う。自分だって知らないことばかりだ。だがマスに何かを訴えかける時、軽々に「知らない」では終われない。わたしはそう教わってきた。はたしていまは、どうだろう。
まさに今、青天の霹靂で告知を受けた人があのポスターやコピーを見たら。つらい結果を耳にしたあとに、目にしたら。通院で待合室に貼られたそれに、心砕かれたりはしないだろうか。また、女性のみが罹患するわけではないのにも関わらず、女性性やジェンダーロールと強く結びついたものが多いのは、男性患者の目にはどう映っているのだろう。
人の感じ方はそれぞれだ。杞憂かもしれない。でもどうにもつらいような気がして、ただそれが気掛かりでならない。
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手遅れのたとえとしてサラッと持ち出される「ステージ4」にも、大切な人たちを失ってきた自分は時折打ち拉がれる。語呂やキャッチーさや韻のために、誰かがきっと何処かで膝をつく。
それはそんな軽く扱っていい話じゃない、そう言ったところで絶対に届かない隔たりがあるのをわかっている。表現が万人にとってパーフェクトであるべき、という尖った理想論で括れない、括るべきではないのも知っている。
「当事者じゃないからわからない」という言葉の檻の中に閉じ込めていたら、多分ずっとかけ離れたままだろう。必要なのはイメージすること、自らの感情を誰かのために使うこと、その前に知ろうとすること・・・・・・。
でもそれを他者に強いることはできないから、難しい。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」