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言葉とかモノを越えて

短い連なりで放った言葉たちは、如何様にも受け取れるようにと思っていた。

わたしの経験談を語るとき、言葉を敢えて削ぎ落とすことが稀にある。
それはそこそこの確率で誤解を招くだろうし、自分自身にとってはリスキーでもある。新雪のように踏み込まれたくない場所や個人情報は守られても、心が守れるとは限らない。だが、それも踏まえてのことでもあるのだ。

ひとたび台本になってしまえば、相手の心の内に潜むクリエイティビティを損なうだろう。現実に即したわたしの感情の動きは、そういった意味合いでは時折邪魔にもなる。
一々そんな風に思ってしまうのが、おそらくわたしらしさではある。

本当は、最初からひたすら事細かに伝えることだって出来る。
でも、言葉はあくまでも言葉でしかない。実際に会ったり、触ったり、感じてみることの情報量の方が遥かに多い。時には相手の目を見て声色にふれるだけで、言葉の情報など吹き飛んでしまう。

そもそも、他人と完璧に分かり合えるなどということはない。
誰かの見ているわたしは、その人のフィルターを透かして見た「わたし」だ。もっと若い頃、大学生あたりの自分ならばそこに苛立ちもあっただろう。でも今は、そこがまたいいのだとも考えるようになった。

誰もが誰かの人生の中で、登場人物になり、またひとつの素材となって再構成されていく。

誰かが織り上げてきた物語を羽織り、その誰か特有のフィルターでみた「わたし」がいつも存在している。わたしの存在は、固有でありながら常に多彩なのだ。
無数に存在する「わたし」のうち、幾つかがあらわれる。それらは、その誰かを映す鏡でもある。みんな他者を介して、根底では自分自身をも同時に見ているのだ。
わたしはその鏡をじっと見つめる。わたしと「わたし」、そこに横たわる差異こそが、目の前の誰かによる演出だ。目の前の誰かによる人生観、そして想像と創造がそこに介在している。
そうしてまた、その「誰か」をじっと見る。じりじりと薄皮を剥ぐように摺り合わせていくことが、理解という言葉の目指す意味なのだろう。

そして言葉やモノを越えて、ふっと偶然に重なり合う瞬間がごく稀に訪れる。
それは真摯に向き合おうと試みても、必ず得られるとは限らない。ただ、目を背けたり斜に構えようと少しでも思うならば、決して手に入ることはないものだ。

重なって、またほどける。そして振り返る。その時、心はきっと動くだろう。

 


 ◇ ◇ ◇ 
 
『暗闇から手を伸ばせ』を聴きながら。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」