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特別なんかじゃなくていい(ビニテ片手にプレイバック)

自分の立ち位置なんて、バミるビニテがうっかり剥がれてしまえばあっさりと見失うかも知れないでしょう。・・・・・・何のこっちゃわからなくていいです。下手なたとえです。
ちょっと何を言ってるのかわからない。

マンモグラフィで要精検カテゴリー3の結果が届いた時、多分体感で3分くらいかな、ちょっとこれ多分きちゃいましたわ・・・・・・と思考が止まった。カテゴリー3だけれど、わざわざコメントまでついていたからね。
でもその直後から猛烈に知識を漁って更新しはじめて、修学旅行の準備でもするかのように情報と向き合う日々を過ごした。
だから、告知までにはすっかりがん患者になることを受け入れていたし、「がんです」と言われたら「がーん」とベタな返しをしていいのかなんてくだらないことを考えていた。

まああとは、地毛でウイッグ作ったらどっちとも言えて面白いな、とかね。

その頃から、経験談とともに溢れるある言葉についても考えていたんだ。

https://twitter.com/natsumex0087/status/1150309391498805249?s=19 ほか

少し前と今で大体考えていることに相違がなくて笑った。
こういう時っていうのは、そりゃあブレッブレにぶれても許されるのではないのかいな。

がんになったから学べたと言っていることだって、別にがんでないといけない理由なんてなかったと思うんだよ。がんだけが特別な病気だとも思わない。

別に言葉狩りがしたいわけじゃない。

人間誰しも自分の経験を特別と思い込みたいんじゃないか、そう思ってるし、そうであっていいとも思うよ。
でも、病気や自分を特別だと思うことで、もし「わたしは○○できたからあなたもできる」とか「○○の恵みを受け取れないなんてかわいそう」みたいな話になってくると、俄然キムタク先輩ばりにチョマテヨと言いたくなるんだ。
著名人がキラキラと微笑んで語るたびに、この瞬間も自分を責めている人、責められている人がいるんじゃないかと気にかかるんだよ。

悲しみや困難なんて、直視したくないよね。ギフトを喜ぶ人だって、時間を巻き戻して「がんになる道」「がんにならない道」を選べるならば、後者に進む人が多いんじゃないかな。そう思うんだ。
わたしは好奇心が強すぎるから、勘違いして真っ直ぐ見ながら、これ食べられるのかなあなんてもぐもぐしつつ明後日の方向へ歩いちゃっただけで、「適応」はそこについてきただけなんだよ。

なかなか適応できない、患者であることを受容できないならば、そんな自分を責めないでほしい。まわりも責めたり急かさないでほしいんだ。朝には適応できていても、真っ暗な夜中には震えてしまうかも知れない。人間の心なんて揺らぐものだと思うし、それが人間的な魅力なのではないかなあ。キャンドルの炎が美しいようにね。
揺れたときも、これから伴走してくれる医師や看護師に話を聞いてもらうことが出来る。納得して歩めるように。

キラキラしなくてもいいよ。わたしみたいに色々すっ飛ばして駆け足するとね、ちょっと物わかりが良すぎて胡散臭い患者になっちゃうよ。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」