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ミームとスティグマ

 作品に出てくるがん患者が毛髪があってもニット帽姿なのは安直な演出で馬鹿にしている、髪の毛がないがカツラを買えない人間が仕方なく被るものでありスティグマだ、というネット上の記述を見掛けて考え込んでしまった。
 スティグマというのは烙印や恥辱を指す言葉だが、ニット帽を被る表現は即ちがん患者を馬鹿にする行為なのだろうか。
 

 わかりやすいミームの例として、アニメーションにおける「亡くなる母親の髪型」(ルーズサイドテール)がしばしば話題になる。これは元々「病床で髪を後ろに垂らすと寝る時に背中で踏んでしまい痛いので、片方で結び前方に垂らす」という、割とリアルな状況を表現に組み込んだものに過ぎなかった。つまり病床にあることの一表現であり、死とは関連付けされていなかった。
 これが2016年頃に海外で所謂「死亡フラグ」と結び付けて語られるようになり、SNSで拡散された。「この髪型の母親=死ぬ」という推測により、視聴者側によって意味が強化されたかたちだ。(複数存在する製作者側の意図として公表されたわけではない、という点は重要。)

 当然だが、ルーズサイドテールのキャラクターは全員悲劇的に死ぬわけではない。
 また、現実の人間がその髪型をしているからといって、ミームに当てはめて馬鹿にされるわけでもない。悲劇性の強調という観点で捉えるならば、むしろ時系列に沿って外見上の明らかな変化を押し出す方がわかりやすく、髪型が重要度として高いとは考えにくいような気がする。
 つまり、ミームならばまだしもスティグマと言えるかというと、かなり難しいように思う。
 

 がん患者におけるミームとしてのニット帽を前提条件として考えてみる。
 まず、ニット帽を被る=馬鹿にするというニュアンスの表現があったのだろうか。これはちょっと記憶にない。
 がん患者の表現としてのニット帽についても、必須というわけではなさそうだ。「がん患者 ドラマ 画像」でざっと検索してみても、むしろニット帽を被った画像は多くないように見受けられる。統計的な資料がないので曖昧な書き方にせざるを得ないが、どの程度の強度を有するミームなのか個人的には疑問が残る。
 また、ニット帽自体が元々ごく一般的なファッションアイテムであり、スティグマ性を孕むような代物とも言えないのではないか。

「ニット帽」を検索した場合のサジェストワードもファッション関連で占められている


 

 次に、がん患者=カツラを買えないからニット帽、が現実に即しているかどうかという点について。
 わたしも、病理確定前には検索してあれもこれも比較検討したのだ。

 まず、ニット帽というところで考えてしまう。周囲がサバイバーだらけで、他疾患により頭髪をかなり失った人も身近にいるわたしから見ると、細かい話だがニット帽よりまず肌にやさしいケア帽子だと思う。近年はデザイン性の高い商品もあり、価格は1000円前後から9000円弱まで幅広い。

 さらに、ケア帽子には髪の毛付きのものがある。前髪や後ろ髪が予め帽子についていて、髪の毛がある人がお洒落として帽子を被っているように見える品物だ。5000円台からある。

 医療用ウィッグ(カツラ)も今はピンキリで、安いものは5000円台でも買える。勿論、総手植えで人毛ならば桁が跳ね上がるが、人工毛で構わないならば10000円もあればかなり可愛いものが買える。ケア帽子を洗い替え込みで数枚購入するのとほぼ同程度の金額。
 そして、安いウィッグで分け目が少々不自然な場合には、帽子を被ることでそれを隠せる。つまりウィッグを買って被った上で、さらにニット帽含む帽子を被ることはある。

 とてもお洒落に帽子を楽しんでいるサバイバーさんたちが、その意思や実情に反して「ふーん、カツラを買えないのね」と思われてしまうことの方が、わたしとしてはかなり残念だと感じる。

 

 視覚障害者の方の白杖や眼鏡類、体力が著しく減退していたり歩行障害をお持ちの方の車椅子のように、ニット帽が表現に含まれていたからといって即ちスティグマだとはわたしは思わない。具体的にどのように描かれたのかという内容の方が、遥かに大事なことのように思う。
 もしも表象そのものを差別としてしまえば、表現の場からそれらを有する人々が排除されかねない。それは多様性を当たり前のものとする流れに逆行するのではないかと、少し大袈裟かも知れないが心配になってしまうのだ。

 辛い状況下において、時として自らが責められたり迫害されているように感じてしまうこともあるのだろう。
 ただ、その個人的な感覚が果たして一般化に値するものであるのか、それだけの根拠を有するのかということについて、ちょっと立ち止まって考えてみたほうが気が楽になるかも知れない。
 人は見たいように物事を見る。他人の視線や表現を悪意として見ようとしてしまえば、余計に生きづらい毎日が待っているはずだ。

 余談だが、サバイバーでもがんでない人でも楽しめる、肌にやさしい帽子をデザイン・製作されている方がいる。わたしはそれをとても素敵なことだと思っている。その方もまたサバイバーだ。
 脱毛症やほかの疾患により髪の毛を失ったり薄くなったことを気にしている方々も、がんサバイバーも健康な人も、何ら垣根なく買える品物があることは素晴らしいことではないだろうか。闘病中に苦心して普通の商品から「使えるもの」を探すのではなく、専用品でもなく、みんなにやさしい。そのやさしさは、自由のかたちだ。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」