見出し画像

そこ、切れてないと思うんだ

わたしは患者で、かつ患者家族でもあるので、度々その立場で感じたことを書く。

認知は必要か(しれっと線を引いておくことについて)|なつめ @natsumex0087 #note https://note.mu/natsumex0084/n/na2db86fe5de0

ここでも触れたのだけれど、わたしは患者だからといって自分がどんな振る舞いをしていいとは思っていない。これは、他人にそれを求めるものでは決してなく、あくまで自分自身への戒めとして。

入院中、不穏な男性患者に怒鳴られ呼びつけられていた看護士や、真夜中の処置拒否に駆けつける当直医を見るにつけ、やるせない気持ちが胸の中を占めた。

その患者さんたちも、きっと色々お辛かったのかも知れないと思う。もしかしたら怒鳴った後に、埋められない心の空白を感じて後悔したかも知れない。

だからこそ、やるせない。

医療従事者にとって、確かにそれは仕事の一環かも知れない。でも、過酷さはわたしが見る断片的なシーンからでも伝わってきた。

だからこそ、色々と書き留めておこうと思った。

医療に携わる方々からのあたたかいお気持ちを拒絶したりという気持ちでは、ない。
何かを必要以上に求めたり、または勝手に期待し過ぎて勝手に一喜一憂することがないように、時折自らを振り返るのだ。

お互いの立場をわかろうとするためには、心の余裕はもとより、立ち位置の違いを知っておくことも大切だと思う。
身体が辛いときにそこまで気が回らなくても、正直それは仕方ないことも知っている。また、身体や心の調子なんて、健康であっても毎日ずっと一定に保てるものでもない。

緩やかにグラデーションを描いて揺れている日々の暮らしの中に、病気もある。

だからきちんと知るために、自らの感情ではなく立場でラインを引いてみる。そのラインを知った上で、考えたり歩み寄ったりする。
きっと、その線を引くことで関係性がぷつんと切れてしまうことはない。そう思っている。

そこで見えてきたものは、知識と同じように気持ちの余裕につながる。わたしに余裕があるときは、その余裕をシェアしたい。
わたしもきっと、そうしたペイフォワードで、無数のシェアを無意識のうちに受けてきたのだと思う。多分、これからも。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」