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かたちあるもの

 またお若い方、おそらくサバイバーであろう方の訃報を目にして、直接の知人でもないのになんとも言えない気持ちになっている、金曜の夜。

 いつか無くなるものだから美しいだとか、その死にも意味はあるのだとか、人は色々と言うだろう。この世界だって、飽和するわけにはいかない。
 そんなことは重々解っていてもなお、何年も前の別れを反芻する自分がここにいる。

 あの人だって、若かったのだ。充分に。

 たったひとりの人が似非医療の罠にかかり命を落とすことのどこに、必然性があるのだろう。抱えた不安や焦りを食い物にされることの、どこに。

 そんなものはない、ないんだとわかっていても、些細なきっかけで湧き上がる気持ち。ほんの僅か、触れるか触れないかという程度の言葉や共通点が感情と思考回路のスイッチを押す。

 かたちあるものならば、せめて、せめてまだここに。本来ならばいられた未来に。
 もっと近しい関係性の方がどう思われるかはわからない。だから口には出さない。口には出さずとも、ずっと考えている。
 ロスや単純な悲しみではない。もっと秩序なく何もかも入り混じった気持ち。

 もしもその死で周りが何かを学んだのだ、と誰かが言うのならば、わたしはそれをかなぐり捨てたい。
 他者を学ばせるためになど、命を落とさなくていい。そんな風に利用などしたくない。ただ、ただまだ在ってほしかった。在ることができるはずだった。

 綺麗な言葉では語れないもの、語り尽くせないもの──安易に別の、自分好みのかたちに変えてはいけないものとともに、わたしは生きている。
 そのかたちあるものを失って思考と躊躇いを繰り返しながら、自分の中に自分のかたちを見出していくことが、わたしの旅なのかもしれない。
 
  

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」