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Spotlight/So tight

 血液がんから復活を遂げたアスリートのニュースに、タイムラインが揺れた。揺れて、揺らいだ。
 『自分がすごくつらくてしんどくても、努力は必ず報われる』
 そうか、これか。希望にも、時として絶望にもなる言葉──。

 報われない無数の努力、たくさんの夢やぶれた人々、その上に輝く「報われた努力」はひときわ輝いて見える。目が眩むような強さで。でも、光があれば影はかならずある。強烈な光と色濃い影は、いつもともにある。努力をしても評価されず忘れられていくことなど、世の中には幾らでもある。

 「頑張れば叶う」「努力は報われる」は自分を鼓舞したり肯定する言葉であって、他人様にぶつける言葉ではない。今回のニュースにしても、他人に向けた言葉ではない。「わたしみたいに努力すれば叶います」とはこれっぽっちも言っていない。彼女が責められるいわれは、ない。
 包丁も使い方で凶器になるのと、多分よく似たこと。そして包丁を他者に向けてしまう人がいるように、全く状況にそぐわない借り物の言葉を差し出してしまう人は、残念ながらいる。「だからお前は頑張っていない」とか、「もっと努力すれば」とか、無責任に言う向きは多分出てくる。

 努力は必ず報われる、という言葉の向こう側にある人たちもおそらく別の血の滲むような努力をなさっていて、でもどうにもならなかったのかもしれない。しかしそこにスポットライトはあたらない。あたらないから、見えてこない。
 結果として、勝者の存在だけが際立ってしまう。そうして「理想からは離れた人」は、理想化された勝者に重ね合わせられてしまうのだ。なぜか。単に応援したいからか。はたまた、窮地からの逆転劇は絶好のカタルシスをもたらすものだからか。どちらもあり得ると、わたしは思う。

 正式な病名や病態が違うのに、チャンピオンケースを引き合いに出されて小突かれるんじゃないか、と憂慮する気持ちはとてもわかる。
 でもそれとは別に、ひたすらに頑張った人が報われたことは素晴らしいことと思う。賞賛されてほしい。そのあたりはきちんと切り離して考えておかないと、誰も何も喜べなくなってしまう。ひとたびがんになったら、いや病気になったら、喜びをあらわすことさえ奪われるような世の中はごめんだ。

 よくないのは、当事者以外が上手いこと言おうとして、グサリと傷つけてしまうこと。患者や患者家族の気持ち、そして状況を考えずに失敗してしまうケースのほかに、想像が現実に全く追いつかない場合もあると思う。
 そしていつ如何なる時でも揺るぎない正解は、実はない。関係性、表情、仕草、声の抑揚、その直前に起こったことにすら影響されてしまう。
 毎度余計なことを言ってしまう人も、傷つけようとしたわけではないかもしれない。誰しも間違えることはある。色々思うことはあるけれど、わたしもかつて正解ばかりしてきたかと問われれば、心許ない。

 がん患者は、うつ病を併発する確率が健康な人よりも高いと聞く。腫瘍精神科という診療科があるくらいで、わたしもカウンセリングの希望を聞かれたことがあるのだが、おそらく健康な人への認知度は高くないだろう。
 もしもそうした状態で「頑張れば」「努力すれば」という周囲からの声掛けがなされてしまったらと思うと、非常に気掛かりだ。

 言葉の使い方が間違っている人に、「それ、あまりよくないよ」と知らせるのか、「もうあかんわ」と呟いて匙を投げるのかは、ケースバイケースかつその人の自由だ。
 わたしは簡単には匙を投げないことを選んだ。正直、時々ちょっとしんどい。だが全摘とはいえ偶々早期発見だったのだ、ならばここで食い止めるために動いてみるのも悪くない。そう思っていつも対話を試みる。次の誰かが傷付かないように。

 顧みられなくても、評価されなくてもかまわない。手の届くささやかな範囲でなんとか絞り出した努力はどうか、無駄になりませんように。祈るように願う。
 
 
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 例えば、時々門外漢から槍玉に上げられる「応援ソング」は、個人的には全然いいと思う。あれは聴いて気持ちを高めるものだから、あえて影を強調する必要もない。何かにつけてポップソングにあたる人は、盛大なお門違いと思っている。江戸の恨みを長崎で返すなと、常々思っている。
 曲は星の数ほどあるし、聴くものを選ぶ権利はこちらにあるのだ。凄腕のDJばりに鮮やかに、その時の自分にフィットするものを選べばいい。「ちょうどいまの自分」に合うか合わないかだけの話だろう。
 
 
 
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」