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行きて帰りし物語

 物語の構造に、「行きて帰りし物語」というものがある。
 主人公は日常世界を離れ非日常の世界に赴き、冒険や試練を乗り越えることで成長を遂げ、また日常へと帰る。
 神話によく見られる構造だ。昨今「異世界転生もの」が流行っているが、これの骨格は実は大変古いものなのだ。

 作品で言えば、「千と千尋の神隠し」や「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」がこれにあたる。「君の名は。」はちょっとひねっていて、とりかえばや(=入れ替わり物語)と行きて帰りし物語、その双方の構造を持つ。


 さて。
 病気について非経験者から話を聞かれるとき、「そこから何を学びとり」「何を得たか」ばかりを重視されることがある。
 ああこの方はちょっといい話を聞きたいんだな、と瞬時に思う。それは一種のリクエストタイム。わたし自身の病気についても、家族の闘病についても、興味津々に聞かれたりするのだ。
 大抵の場合、わたしは場が潰れない程度に薄めた現実に、良さそうな言葉を添えて、程良く酔えるカクテルを作ることになる。


 いい話、感動が欲しい人には大変申し訳ない。実際のところ病気で何かを得るよりは、失うほうが圧倒的に多い。
 時間も、労力も、体力も、わたしの場合はともに過ごしてきた片胸も病気が吸い取っていった。気力だって要る。患者という新たなカテゴライズにより、それまでの評価を失うことだってある。
 仕事は何とか出来ているのが救いだが、それは周りの配慮があってのこと。がんになる前そのままというわけには、やはりまだどうにもいかない。


 「でも得たものはあった」という言葉が期待されている、それさえ口に出してしまえば行きて帰りし物語が成立することを、わたしは知っている。再建中とはいえ、がん自体の摘出は終わり日常の場にいるのだから。経過観察やインプラントの入れ替えがまだあるとしても。
 でも行きて帰りし物語が報酬を得る話であるのに対して、現実はそんな甘く美しいものではない。
 失ったことを受容した上で、時折また手元に引き戻して矯めつ透かしつしながら、僅かに変容した人生観的な何かしらを横目で見やるくらいのものだ。


 行きて帰りし物語にするためには、多分、無理矢理にでも得たものを最大限に評価してやればいいのだろうとも思う。
 パレアナ症候群よろしく「良かった探し」をすることで、それを叶えようとも出来るだろう。
 でも、それは受容というよりは、むしろ受容から遥かに遠ざかって理想化した自己を生きているような気がするのだ。勿論、それも悪くない。でもわたしには到底向いてはいないように思える。


 わたしの物語というものがあるとするならば、わたしは輝くどころか泥臭いファイターだ。
 容姿や年齢はさておいても、プリンセスには到底なれそうもない。


 「得たものばかりでした、病気になって良かった。」
 目も眩むような美しい話が、嘘か真かあちらこちらに溢れている。
 それは自己欺瞞だ、と唾棄することだって出来るだろう。でもキラキラしていなければやっていられない気持ちも、わからなくはない。だからその在り方を尊重したいとも思うのだ。
 行きて帰りし物語の中で、そうすれば見知らぬ誰かが輝けるのだから。
 
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」