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synapse

Twitterに限らずインターネット上での論争を見ていてつくづく思うのが、不毛なやりとりが如何に多いかということだ。
似非医療が国家資格を武器にマスメディアを使い、発信力と正義感のある一部の医師がフォロワーを大きく巻き込みながらマスメディアを叩く。

わたしは患者、そして患者の家族という立場だが、上の文章に「患者」という言葉は出さなかった。それでも文章として成立してしまう。
この違和感は何だろう。

発信力と正義感のある一部の医師は、勿論のこと、それはそれは患者のためを思ってマスメディアを叩いているのだろう。
それで問題は解決しただろうか。

 ◇ ◇ ◇

たとえ話。
強盗犯が凶器になり得る刃物を持っている。警官が駆けつけた。あたりには大勢の一般人。
警官はどうする?刃物をそのまま持たせておくだろうか。

強盗犯を似非医療、刃物を「ペンは剣よりも強い」マスメディア、警官を医師、一般人を患者に置き換えてみてほしい。

患者を強盗から守るためには、まず強盗犯が刃物を使えないようにするのではないだろうか?
刃物を強盗から取り上げる。勿論、強盗は取り押さえる。

刃物は凶器にもなり得るが、普通に使えばただのツールだ。生活を便利にするものであって、いついかなる時も凶器というわけではない。
凶器になるのは、凶器にしようとする者の意思が介在する時に限られる。

ならば「強盗犯」が「刃物」を使わないように、「警官」が「刃物」を奪えばよい。
警官が奪えないのならば、その上の組織が奪えるようにするべきだろう。

その刃物はメスかも知れない。
医師に渡れば、人命を救う大きな助けになるかも知れないのだ。

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「環境」としての「私」──いちサバイバーの視点|なつめ @natsumex0087 #note https://note.mu/natsumex0084/n/n1062cdf9f582

拙noteの過去エントリーでも少し触れたが、人にはそれぞれの立場がある。
そして互いに完全に理解しあうこと、他者の専門分野における全ての知識やスキルを習得することは出来ない。

ならば、それぞれの立場にある、正義と倫理を理解する人々が、それぞれの知識やスキルを持ち寄ればいいのではないか。
伝えたい人と伝える人が、それぞれの持つ正しい知識とスキルのもとに集う。

 
 ◇ ◇ ◇
 

どんな業界にも、よからぬことに手を出す人間や、知識不足から過ちをおかす人間はいる。
そうした過ちを具体的に、個別に指摘することには大きな意義があると思う。どんな問題がどのように起きたのかも伝わりやすい。

だがそのたびに業界ごとバッシングが起こるのは、どうしたことだろう。ただの職業蔑視であって、バッシングした人間が自ら差別主義者であると声高に表明しているようなものだ。
問題はすり替えられ、矮小化され、元々誰がどのように悪事を働いたのかは見えなくなっていく。背景は検証されないまま、明後日の方向へ消えていく。
そこに真の正義を見出すことは、わたしには出来そうにない。

 
 ◇ ◇ ◇
 

シナプス前細胞とシナプス後細胞のように、入力と出力がともに働きあうこと。人と人では時にその立場が逆転するかも知れない、そうして多様な立場からより良い未来を目指すこと。
それは不可能なことだろうか。

患者にも、そこにコミット出来ることはあるのではないか。患者会に属しているか否かを問わず、発達した情報網の中で、ひとりひとりが小さな声をあげて響きあえるのではないか。
通報したり、避難を促したり出来るように。

すべてを学ぶことは不可能でも、お互いを知ろうとすることはきっと出来るはずだ。社会とは、そうして相互扶助により成り立っているものではないだろうか。

過分に青臭いかも知れない。何も出来ない奴が偉そうに、と罵られるかも知れない。
だが、それでもわたしはそう思いたい。

 

 

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上のたとえ話、強盗犯は元警官の場合もあるというのが闇だなと思う。いや、警官が強盗していたりもするね。資格は持っているわけだから、より酷い。

時折見られる患者自己責任論(※啓発とは似て非なる)も大概酷いと思っています。末端の、一番弱い立場に全てを押し付けるような在り方はどうなのでしょうね。それは似非側を利する論理ではないのかな。
逃げるのは容易いけれど、小さなスイミーだってみんなで泳いだでしょう。
カテゴライズにとらわれず、シナジーを大切にしてほしい。バッシングではなく、建設的な批判を。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」