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想像力を、やわらかく使うこと。

ドラマ「にじいろカルテ」に関連して、難病「多発性筋炎」を解説した記事を読んだ。

文中、とても気になる部分があった。
60~80%の5年生存率を取り上げて「とても怖い病気のように扱うのは違和感があります」というくだりだ。ちょっとどうなのだろうか。
わたしは違和感ないと思った。むしろ、リアルとさえ。

わたし自身、難病の疑いがかかったことがあり、またごく近しい人が難病を患っている。難病を抱える知人友人は、他にもいる。
難病は決して珍しいことではない。気付いているかどうか、もしくは打ち明けているかどうか、それだけだ。
疾患名は色々あれど、意外に出会すこと。ただ、実際にそれが自分の身にふりかかると、数字や言葉の重さは随分と違ってくる。

ある日未来がパーセンテージで表される状況になり、将来に不安を覚えることの、何に違和感があるのだろう。
年齢も性別も職業も関係なく、捉え方は人それぞれ。確率における大多数の方に入るとは限らない、その現実はそう軽くないはずだ。
仕事に影響を及ぼすかも知れない、日常生活はどうなるだろうか・・・・・・そんな考えが重くのしかかる日もあろうかと思う。

わたしはさらにがんになったが、DCISという超早期のため完全に切除できればきわめて予後が良好、治癒がのぞめた。(勿論これは適切に治療を行った場合で、放置した場合は浸潤がんになる確率が14~53%あるとされる。)
それでも、切ってみないことには非浸潤であるとは確定しない。つまり、闘病初期の時点では確率からは逃れられてはいないのだ。
予備知識があり、いかに受容ができていようと、手術を待つ間に全く何も思わなかったと言えば嘘になる。

無論、エビデンスに基づいた数字は大切だ。
だが、患者はn=1の存在でもある。マンモグラフィのカテゴリー3、がんの確率は5~10%だ。その「少ないほう」に入って、今のわたしがいる。
正しく怖れることも必要だろう。怖れればこそ記憶に強く残り、同じ症状が出た時に思い出して医療へと繋がれるかもしれない。再度の検査に向かえるかもしれない。

実際にその立場にならないと、もしくは支える立場にならないとわかりにくいことはある。それは仕方ないこと。
でも、他人のつらさをディスカウントするような表現には気をつけてほしい。受容までの道のりは、人それぞれなのだから。
たとえフィクションであっても、その向こうに同じ気持ちを抱えた人がいるかもしれない。モデルの存在があるかもしれない。

「にじいろカルテ」1話では、難病を殊更悲劇的に描くことはされていなかった。ヒロインは病気を契機に大病院を辞めざるを得なくなったことから、転職時に健康状態を偽ってしまった。そのことにかなりのウェイトが割かれていたように思う。
そういうかたちで失職したり降格させられたりする話は、サバイバー界隈でもよく聞くことなのだ。

数字と感情、セオリーとリアルは、必ずしも一致しない。
大っぴらに否定されたら、その言葉を受け取った人は自らの抱えた気持ちを口にできるだろうか。周囲に偏見を生まないだろうか。
本当につらい人が、つらさを胸に押し込めてよりつらくならないように。第三者から「なあんだ、その確率で?」と言われてしまうことのないように。
やさしい世の中であってほしいと願ってやまない。
 
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」