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LIVE:断層を埋め、飛び越えるもの

channel 02の驚き


 昨年末から延期を経て春先に開催されたSIRUPさんのオンライン公演「channel 02」は、配信ライブの概念を鮮やかに塗り替えるような演出が見事だった。
 リアルタイムでMVが作られていくような感覚に驚く前半、会場を広く使えることでダンスとの融合を果たした圧巻の中盤を挟み、コラボを盛り込みながら研ぎ澄まされたショータイムの後半。

ライブレポはこちら。

 オンラインライブは有観客ライブの「代替手段」として広がりをみせた。本来ならば客前で行う内容をそのままの形で配信するもの、構成を絞ってアンプラグドで流すタイプの配信も多かったように思う。それはそれで大変に素晴らしいものだったが、配信中に「代替でしかない」「仕方ないから」といったMCが挟まれることもままあり、暗い世相をその都度思い出さざるを得なかった。別にそれを批判したいわけではない。だが興奮から冷静へ、否応無しに引き戻されてしまうのだ。
 一方、オンラインならではの公演、演出を追求するアーティストも少なからずいた。先述のSIRUPさんもまさにそのひとり。


ジャンルを超えたムーブメント


 他に例を挙げると、ビッグバンドではThe Under Wisteria主催のBLUE MOONにおけるハイブリッドライブ(対バンイベント)が記憶に鮮やかだ。
 このライブでは配信観客のコメントをモニターに映しつつ行われた。また、ノーカット生放送をマスに向けて流す配信特有のスリリングさがありながら、カメラ6台のカット割りやスイッチングが絶妙に良く驚いた。長丁場でのミススイッチングは避けがたく付き物の感すらあるが、これが非常に少なかったのだ。
 結果、ドラムのようなライブハウスでは見えにくいパートでも躍動感ある映像が楽しめ、生でありながら通常のライブとは全く違う魅力が生まれていた。

 このバンドは他にアフタートーク配信という追加要素もチャレンジしていて、こちらも興味深かった。こうしたプラスアルファが配信観客数に好材料となるといい。リアルライブを見た人があらためて配信チケットも購入し、アーカイブ共々楽しむといった選択肢もあるのだから、購買行動を喚起するきっかけとしてもナイスアイディアだと思った。

 

ある懸念 


 イベント開催条件緩和から一部フェスの復活を経て、有観客が増えるに従いオンラインライブの立ち位置が揺らぐのではないかとわたしは危惧していた。本来ならば公演に直接参加できない層にとって、それは喜びが再び失われることを意味するだろう、と。

そのあたりは以前noteで書いた。

 わかっているのだ。
 生の音でしか体感できない音圧、その場にしかない空気感、一体感。それが音楽の根源的かつ圧倒的な魅力であるのは確かだ。バンドスタイル問わず、打ち込みサウンドであってもそれは変わらない。眼前の観客数は演じる側のモチベーションにも影響するだろう。
 経済的苦境にある音楽従事者の方々を思うと、大変につらい。損失額が莫大であること、閉業や廃業が報じられるたびに胸を痛めてきた。度々TwitterでMUSIC CROSS AIDへの募金を呼びかけ、自らも僅かばかりながら協力してきたが、それで何かが埋められたとは思っていない。


夜を乗り越える 


 そんな中、リアルライブとオンラインライブについて言及するミュージシャンがいた。サカナクションのボーカル・ギター、山口一郎さんだ。
 5月17日、Twitterの新機能「スペース」を使って行われた音声配信(双方向コミュニケーションが可能なラジオ的機能)。リアルライブの本質的優位性に触れながらなお新しい音楽のステージとしてのオンラインライブを肯定する数々の言葉に、非常に感銘を受けた。
 人々を生の音楽と引き離すものは、今の流行病だけではない。病気、家族の事情、仕事または職種、様々な要素がある。それは今に始まったことではない。そうした人々を音楽に繋ぎとめる、それが現代のアップデートだという内容を山口さんは語り、また文章にした。相変わらず暗い話題が渦巻く中、そこには新たな未来のためのビジョンがあった。「夜を乗り越える」ための。

 サカナクションはYouTubeで過去のライブを積極的に無料配信し続けていた。GWは一日おきに。そして8日には配信の可能性に挑戦したオンラインライブ「SAKANAQUARIUM 光 ONLINE」を配信、さらに翌9日には会員限定の10周年記念イベントも配信。
 そのフロントマンによる言及、そして自宅で行われる実験的アコースティックライブ「NF OFFLINE FROM LIVING ROOM」への誘い。5/22・23の両日開催、1日目は公式会員の限定だ。

 これはとんでもないものが生まれるのではないか。
 いてもたってもいられず、2日目のチケットを購入した。1日目はInstagramで見る。このライブはInstagramでも一部分が見られるのだ。つまりこの公演は、オンライン(ストリーミング配信:Streaming+)とオンライン(SNS:Instagram)のハイブリッド。

 初日。
 Instagramでの配信はモノラル音声+固定カメラという、インスタライブにおけるオーソドックスとも言える仕様。大好きな楽曲に流石の演奏で、とても楽しめた。
 Instagram Liveでは投げ銭機能の「バッジ」があり、これを購入して配信者をサポートすることができる。つまり、無料で見られるがおひねりはあり。一回に購入できるのは少額ながら、これが大変活況だった。

 そして二日目。
 度肝を抜かれた。Instagram Liveと同じ楽曲を演奏しながら、演出効果がまるで異なる。そう予め知っていてもなお、度肝を抜かれた。知ってはいたけれど、Rhizomatiksは凄い・・・・・・。
 家具が映っているのだ。絨毯の模様も見えるのだ。そこに椅子がある。デスクがある。にもかかわらず、そこは紛れもないライブ会場であり、海だった。わたしは海に呑み込まれ、音と映像に誘われるままに海底へと落ちていく。それも、住み慣れた自宅のリビングで。

 音声はステレオなのだが、ただのステレオではない。3D音響再現のためにサンプリングリバーブが緻密に計算され、まさにその場で聴いているかのような錯覚に陥る。この日の視聴で使った機器は、しばし迷った末に密閉型ヘッドホンにせず有線ピヤホンをチョイスしたのだが、これがまたいい仕事をしてくれた。(後日密閉型ヘッドホンで再度視聴したところ、これまた頗る良かった。)

 ライブの醍醐味のひとつは没入にある。日常を綺麗さっぱり吹っ飛ばして、非日常へとダイブする。このオンラインライブは、まさにそれであり、しかもこれまでとは「違う」ものだった。テレビにキャストせずスマートフォンで観たのにもかかわらず、全く新しい体験をわたしはした。


ハロー、新しい場所
 

 マジョリティからは遠く離れ、可視化されてこなかった「生ライブとの断絶」が、いまたくさんの観客たらんとする人に襲いかかっている。
 失ってはじめてその断層に気付いた人たちの驚きと衝撃を、そもそもその少し前から入退院を繰り返し断層の反対側にいたわたしは見つめてきた。そう、それは大変につらい。わたしより長く対峙してきた人は、いま何を思うのだろう。

 だが希望は混沌と暗闇から生まれる。パンドラの箱、その底に希望が残ったように、わたしはこの日ひとつの確かな希望を体験したのだ。それは代替などでは決してなく、新たな選択肢であり豊かさだった。長いスタッフロールは、何者にも奪われない未来を創造しようと力を注いだパイオニアたちの記念碑のようだった。
 この夜をわたしは祝う。リアルライブの再開が人々の希望であるならば、こうしたオンラインライブの進化もまた紛れもない希望なのだと確信した、それはそれは素晴らしい夜だった。
 

 ヘッダーの写真。中央から上下で表情が少し異なる。しかしこれは加工ではない。ひとつのテレイドスコープを覗いた時の写真だ。
 音楽にも、多面的な魅力がきっともっとある。ツールが増えるごとに、それは増えていくのではないか。シンセサイザーが生まれ、デジタル機器が多様化し、DTMが普及してきた時のように。分け隔てることなく、わたしはすべてをこよなく愛すだろう。
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」