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update,outdated

 わたしが好んで聴いているバンドのボーカリストは、よく自らを指して「ただの音楽好きのあんちゃんだからさ」と言う。決して自らと大衆を切り離して語ろうとはしない、自他を見つめる目線のシビアさが好きだ。
 大きな影響力を持ち、複数の会社を経営して、常に幾つものプロジェクトを走らせているのだから、その意味では「ただのあんちゃん」であるわけがない。だがおそらく意図的にそう楔を打ちつつ、人一倍世の動きや人心に気を配っている様子を受け取ってきた。時には躓きながらも現状に留まらずアップデートを躊躇わない潔さ、貪欲で攻めの姿勢でいい。

 元々は法令遵守の意味を持つコンプライアンスが注目を浴びるようになり、コンプラと略されて随分と経つ。法令に加え倫理規範や社会的道徳を守る努力をすることが企業や個人に求められる時代。すると「反コンプラ」というカウンターが出てくるようになった。コンプラ棒で叩くな、多様性の時代なのだから、それもこれも自由だと。

 そうだろうか。
 何故これほど急速にコンプライアンスが脚光を浴びてきたのかといえば、法令や倫理を守らない人たちにより社会的不利益が生じていたためだ。企業の不正など大規模な不祥事をきっかけとして、メディアや消費者を含む社会全体がそれを批判し、行政側でも取り締まりを強めてきた。
 コンプライアンスは、多様な在り方が尊重される社会の中でも、とりわけコモンセンスとして何が駄目なのかをわかりやすく提示するものではなかったか。学ぶことで予めトラブルを回避できるならば、その道をあえて通らなくて済むようにしたのが所謂コンプラの遵守だろう。
 知識は攻めの姿勢を貫くための優れた武器であり、その道中で余計に人を傷つけないための頑強な盾にもなるのだ。しかも、たったひとりを守るために作られたものではない。

 コンプラはどうでもいいからもっと自由を寄越せ、コンプラがうるさいからやりにくくなったし面白くない、という言葉を炎上絡みで度々耳にする。
 それはつまり「これまで踏みにじられていた人間はそのまま踏まれておけ、俺様の自由と快楽のために」という意味だろう。はたして多様性とイコールだろうか?
 学びたくない、だが発言力は一端に欲しいので流れに棹をさす。こうした姿勢はむしろ古い害の意図的な存置であって、多様な人が自由に楽しく過ごせるようにする流れに反しているのではないか。

 それほどまでに古い倫理規範を重視するならば、何故古来ゆかしき平安時代の身分制度で最下層に甘んじて暮らそうと思わないのだろうか。さらに遡って野原を布一枚で駆けずり回るのもよかろう。膝をつき顔を下げねば打ち首にされる時代が良いだろうか、問答無用で徴兵され最前線に立ちたいだろうか。
 時代は遡れないが、類似の環境を求めて旅立つことは自由だ。だがそうしない。

 現代社会に生きる人は、みなアップデートによって変わってきた末にいる。社会倫理が時代により変容していく性質を有するのは歴史を見ても自明。流行は追うくせにしなやかにフィットしていくだけの力量を持たないことの告白(またはそのように評価しているという言明)になっていないだろうか。

 旧態が捨てられて変わっていくものの中には無数の葛藤や主張や闘いがあり、そのうち有名なものは教育の場でも伝えられてきたはずだ。
 選挙権に限っても、極めて僅かな特権階級の男性(実に人口の1%)しか投票を許されなかった時代、男性のみが投票できる時代を経て、ようやく女性にも権利が認められたように。明治民法時代の既婚女性が無能力者呼ばわりされていたことは、近頃始まったドラマ「虎に翼」でも描かれたところだ。コンプライアンスの更新で多様な意見が社会に活かされるようになった現代に生きて恩恵を受けながら、それを否定するのははたしてどうだろうか。

 古い倫理観を捨てていくことで新しい倫理観を得てきたのは、別にこの数十年の目新しい話などではない。連綿と続いてきた流れのほんの一端が今という歴史の一部分なのだ。遮二無二他人に努力を強要する風潮から個々人の在り方を多角的に捉えるようになったのも、個人にあった生き方やその選択を尊重するようになったのも、誰かがそれを必要とし訴え動いてきたから成し遂げられたことなのではないか。
 学べるのかどうかは、性別も年齢も関係ない。ひとえに個々人のアンテナと環境、努力による。ジェンダー対立として見るのも世代間対立として見るのも妥当ではない。それはまた新たな偏見を生むだけで本筋から逸れていく。

 時代と幾らか乖離した意見を持ったり、時代のメインストリームに対して懐疑的になるのはむしろいいことだ。だがその存在理由とそこに至る歴史を掘り下げることなく、専ら自らがより強者であるために変化を拒むのならば、変化を柔軟に学んでいく側からは拒絶されても文句は言えまい。
 人はそれをoutdated、つまり時代遅れと呼ぶのだから。


 
 ◇ ◇ ◇
 
 何かを失敗した時、失敗した側が「成功のもと」と開き直ることくらい格好悪いことはない。成功のもとは失敗そのものではなく、根気強く経験を活かすための努力と力量でしかない。そもそも失敗と気付けない上に何故失敗とされたのかを俯瞰することすらできないのであれば、活かすこともかなわないのだから。
 一見似通ったような事柄(実際は全く個別の事象)を例に挙げて「この件はミスリードだった」つまり「昨今の風潮と誤読した側が悪いのだ」とねじ曲げていれば、その時は安心でも同じことが繰り返されるだろう。翻って自分がそうならないように、いつも立ち止まっては考えている。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」