シャツとタクシー、彼女の唇
相当時が経ったから流石に書いていいだろうと思うのだけれど、この期に及んでちょっとためらっている。
彼女に出会ったのは偶然だ。わたしは彼女が何者かなんて全然、それはもうびっくりするくらいに知らなかった。
とあるイベントのお手伝いとして呼ばれた(というか半ば巻き込まれた)わたしと、可愛らしい同年代の彼女。
彼女は、その界隈では駆け出しでアイドル的な存在だった。当たり前に歌も歌うしね。
普通ならば、ただの手伝いと歓声が飛ぶ対象、まああまり話すこともないと思うのだけれど、ひょんなきっかけで同じ場所で待機することになった。
すると、どうも彼女、ちょっと落ち着かない。落ち着かないというより、どことなく怯えているような・・・・・・。
何か声をかけた方がいいのだろうか、そう思っていると、黄色いシャツの集団がこちらに近づいてきた。そして、少し離れた場所からこちらを伺っている。
ファンにしては、どうも様子がおかしい。彼女の名前は聞き取れるけれど、内容がよく聞き取れな・・・・・・あれ、こっぴどく腐してる・・・・・・?言葉がトゲだらけだ。
辛うじて仕切りがあるとはいえ、こちらからその集団は丸見え。あちらからもそうだ。
何かあったらまずい。人を呼んだ方がいいかしら。
「大丈夫ですよ。」
不意に彼女が言った。警戒しているのが伝わったのだろう。
「でも、あの方たちちょっと・・・・・・。」
「○○さんっていますよね、あの人のファンです。」
見ればシャツだけでなく揃いの何かまで取り出しはじめていた。──ああ、応援グッズなのね。たしかにこの後、○○さんもこの近くに来る予定だ。
でも、○○さんのファンが、どうして?
「ぜんっぜん関係ないのに○○さんと熱愛の噂出されちゃって、行く先々で睨まれてるんですよー。ひどいですよね、聞こえよがしで。」
ハッとした。彼女、目はうっすら笑っているのに声は震え、唇を噛み締めている。耐えていた。
「・・・・・・ひどいですね。」
もっと気の利いたことを言えなかったものだろうかと今でも思う。けれど、彼女は頷き、一粒涙を頬に落としてまたプロの顔になった。
そうか、無関係の人間相手だから言いたいことを言えたのかも知れないな。
彼女が本当に○○さんと関係がないかどうかなんて、知らない。
わたしは芸能ゴシップみたいなものには疎いほうだし、誰と誰がどうなっているかなんて知らない。話題作りの裏側も知らない。
でも目の前の彼女はどこからどう見たって傷ついているし、とても年上で口の達者な「○○さんのファンたち」が彼女を傷つけていい理由もないように思った。熱心なファンは貸切タクシーで追い掛けてくるという。その熱意は、本当はもっと素敵に使えるはずなのに。
彼女と同じ場にいたのはその一度きりで、その後お会いすることもなかった。
けれど、今でも鮮烈に覚えている。
タンポポみたいな黄色が目に痛かったこと、そして彼女の震える唇、立場上どうにも出来なかったわたしの苦い気持ちも。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」