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答えと選択

アドバイスが溢れるこの世の隅で、「お前が消えて喜ぶ者にお前のオールを任せるな」から一歩進んで「お前が消えてもわからん者にお前のオールを任せるな」と自分自身に思っている。

細かい事情や普段の表情も知らぬ他人に人生を問おうとは思わない。
一見、たとえば同じような事柄に見えていても、その向こう側にいる人間はみんな違う。感じ方も、感情の閾値も。

正直、お悩みアドバイス系のコンテンツは、どうも好まない。
そこに得難い真実があると思えない。どんな風に取り組まれ、どんなに時間がかけられていたとしても。

哲学ほど普遍化されているならまだしも、とは微塵も思わなくはない。・・・・・・学んだことのある方ならおそらく気付かれるだろう、これには語弊が含まれるけれど。

実像と切り取られた欠片は、相似とは限らない。
全く異なる見え方をする場合、虚像に対しての言葉は意味をなさない。

パーソナルな事柄をどう覗こうとしても、そのパーソンにはなれない。そこに絡み合う幾つもの要素、何人もの関係人物、紐解くことを考えただけでくらくらする。そして、その糸は「枠組みの外側からは」易々と解けたりしない。

むしろ、解こうとするほどに絡まる呪いの糸かも知れない。

複数の目・複数の立場から俯瞰してはじめて見えてくることが、この世の中には多すぎる。誰もがn=1の中、正解を鮮やかに切り出すなど夢想のような気がする。

夢想?
いや、答えを出せると信じる人にとっての救いなのかも知れないな。

本当は、答えなんて自分の中にしかない。
ヒントはあちらこちらから拾い集めて得られても、それは模範解答たり得ない。どうにも足りない種々のパーツや僅かな欠片を張り合わせてつなぐのは、つまるところ自分自身だ。

他人にどうにかなるシロモノなんかじゃない。

自分の中で息を潜めているもの、気付きたくなどなくて何重にも布を被せたその下にあるもの、手を伸ばすことすら躊躇われる側溝の底。

目を向けたくない、気付いたことにしたくない、薄々わかっているくせにわからないふりをしているもの、そこを泥塗れ汗塗れでのたうち回りながら掻き回し掘り返す。
肩を震わせ時に嘆息しながら、一抹の諦めと希望と解放感の中で手にするのが答えだ。それも、自分なりの。

所謂カウンセリングのプロがザクザクと一刀両断しないのは、つまるところそれが望ましくはないからだろう。
手を貸すことは出来ても、その人の来し方そのものを切り刻むような真似は出来ない。

自分自身で苦しみながらようやく手に入れた答えをこそ、人は「選択」と呼ぶのではないだろうか。それが模範解答でなくても、回り道でも。
いつかまた、選択は経験となりどこかに繋がっていく。何度でも。純白も濁った色も光も影もミルフィーユのように重なり、やがて、年輪をつくるだろう。

 
 
過去の自らを振り返り、自戒を込めて。
 
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」