見出し画像

考えながら、文脈をあるく

がんになる前から、よく「強いですね」と言われる。
確かにあまり動じることもないし、告知の時も手術前もけろりとしていた。むしろ付き添いが心配だった。

色々望みさえしなければそこそこイージーに生きてこられたはずなのに、何を血迷ったか山岳地帯と深い谷をフラフラ歩いてきてしまったからこうなったのだと思う。
ひとことで言えば、天の邪鬼なのだ。

大学で心理学を学ぶずっと前から、人の心理には興味があった。ゆえに、自らの許容範囲が若干おかしなことになっているのは、他者から散々指摘される前に気付いてはいた。
だから、自らの主観を他の人にそっくり当てはめるようなことはしない。

強いかどうかはさておき、強い「と言われる」ことがいい側面ばかりではないのは、誰に言われずともそれなりにわかっているつもりだ。

 

がんがわかった時、会社と生命保険担当者にはすぐに報告した。
告知ほやほや、病院の敷地の中からだ。
会社の中で話が広がるかなあとも思ったが、まあそれはそれで手間がちょっと省けるかも知れないな、などと思っていた。

当然のように話はほんのりと伝わり、聞かれたら聞かれたように話した。
聞かれたら聞かれたように話はしたが、何も考えていなかったかというとそうではない。
 

わたしは乳がんの中でも非浸潤性乳管癌(DCIS)で、しかもlow-grade(かなりのんびりとした穏やかながん)なので、創作物によくあるような鬼気迫る状況ではない。
全摘なので人によってはすべてを揺るがすほど大ショックなのはわかっているし、わたしとて思うところが全くないわけではない。けれど、身体は大雑把にいえば脳の入れ物だとも思っているので、それほどまでのインパクトはなかった。命が何より優先であるのは揺るがなかった。

しかし、話を聞く人にとっては、日常の中に降ってわいた驚きの話題なのは確かだろう。
再検査の話はしていたものの、おそらく非日常がいきなりぴょんぴょんと目の前にあらわれたように感じられたのではないだろうか。
 

人によって、話の受け止め方であったり、ショックの大きさは一律ではない。
その人が(悪い意味合いではなく)どれほどナイーブなのか、その人が「いま」どれほどの許容スペースを持っているのかに、当然のことながら左右される。

聞かれたことを、聞かれたように答える。
相手の要請に答える、それだけのことのはず。
──五感をフルに使って、どこまでどのように答えるべきなのか、細心の注意を払いながら。
そう、聞かれた病人の側だって、めちゃくちゃ気を遣うのだ。
しかも本来ならば、答える義務なんてさらさらない。センシティブにもほどがある話題だ。

 

結局のところ、文脈なのだろうと思う。
相手とこれまでどのように繋がり、どのように感じて、またどのように感じられてきたのか。
察する間合い、あわい、響きあい。もしくは反発するかも知れない。
すべてはケースバイケース。

答えたのは自分の意思だ。

では、聞かれたことに意味があるとしたらどうだろう。
答えることに、何がしかの意味があるとしたら。
願わくば誰かがそれで、早く気付くのならば。
 

根掘り葉掘り、ステージまで聞いてきた人がいる。
話してみると、その人の身内はがんサバイバーだった。
漏れ聞いた話で色々と思ったのだろう。不安はパン種よりも簡単に膨らむ。

臓器はどこなのかと尋ねてからハッとした表情になった人も、やはり身内ががんサバイバーだった。
色々と訊くくせにどんどん泣きそうな顔になるものだから、いじらしさすら感じてしまって慰めてしまった。ねえちょっと、立場、逆じゃないのか。

色々聞きつつも痛い検査はしたくないと言っていた彼女は、定期のマンモグラフィを受けるらしい。
当時はちょっとカチンときたけれど、後になって聞けば、彼女にも要精密検査になった過去があった。
怖かったのだろうね。

野次馬的に聞きたい人だって、別に構わないと思った。
そこで耳にしたことが何かに繋がる、ほんの僅かな可能性。
わたしがかつて受け取ったように。

聞いてこない人には、しっかり濁した。
線引きは自ら選んでするものだから、わたしはそうした。

そしてこれらは、ぴちぴちした十代の頃から「いずれ罹るだろうな」と思い、就職してすぐにがん特約付き保険に入ったような人間が歩んだ、n=1の体験談に過ぎない。

 

がんになったことに意味をいちいち見いだそうとは思わない。なんちゃらギフトとも思わない。細胞の複製エラーだ。
がんに罹らない道が選べたならば、迷わずその道を進んだだろう。
勿論、我が身に起こったことがとんでもない悲劇だとも、非現実的だとも思わない。漠然とそうなるだろうと思っていたことが、ただ現実になっただけだ。

ただ、そうは思わない人が悲しみにくれたり、つらくて辛くて誰かに縋る気持ちを軽んじるつもりも毛頭ない。深く傷ついてしまうことがあるだろう。混乱することだってあるだろう。本当はそれがあって当たり前なのだろうと思う。

受け入れがいいとしても、それが本音かどうかだって本人以外にはわからないだろう。みんながみんな強いわけでも、快復したサバイバーの身内がいるわけでもない。
患者だけでなく周りだって、きっとそうだ。

聞かれることが辛くて仕方ない人や、話したい人、話されて辛い人、それぞれが解決したり納得したり離れたり、そのすべてがケースバイケースなのだ。
いつでもどんな時でも間違わず、常に最初から正解を叩き出せる人なんていない。

ましてスパッと解決する物語でも、勧善懲悪でも、感動の話題作でもない。

 
迷いながら、悩みながら、数多の文脈という道を辿ってひたひた歩む。
広いこの世界の中で歩むことはきっと、そういう類のものなのだろう。

 

◇ ◇ ◇
  
過去に周りに打ち明けたことを悔やむフォロワーさんがちらほらいたりして、またそんな機会があったので書きました。
みんなやさしい。
自分のことでいっぱいいっぱいでも仕方ないときに、振り返って過去を悔やむのは、エネルギーをきっととても使う。

大丈夫、感じ方は人それぞれ。
程度次第だとは思うけれど、打ち明けて頼って欲しい人もいるんじゃないかな。

わたしは、かつてそうだった。ネットの怪しい情報よりも、頼ってほしかった。そうあれたら良かったと、今でも繰り返し思う。
支えになれたかどうかなんてわからない。
でもね、最初からその機会すら与えられないまま失ってしまうのは、そうそう忘れられない痛みだよ。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」