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曇天と回想

 昨日と打って変わって、曇り空のような一日。忙しなさもあり、他人の言葉に世知辛さを感じたりもあり。
 毎日が晴れ、そんなわけはないのだ。身体の調子もゆるゆると下り坂になった。ずるずると鈍い痛み。

 自分のことだけをこなして頭を空っぽにしてぐでんとひっくり返っていたっていいのに、そうはいかないから不思議だ。Twitterのスペースを聞いてぐるぐると思考し、流れてきた情報には注意喚起などもして、そして今noteを書いている。
 サガだな。これは。オノマトペの多さで自らの状態をもう一度把握する。
 

 「患者としてのわたし」を語るとき、慎重に他者の存在をより分けることは出来なくはない。しかし「患者家族としてのわたし」や「患者遺族席にいたわたし」を語るとき、他者の存在はより分けられない。
 自然と、他者を幾分なりとも巻き込んで語る/書くことになる。
 その場合わたしが持ち得るのは当事者周辺人物という視点にほかならず、このスタンスから見た一方的な主観だけを振りかざせば暴力を孕むだろう。それを常に念頭に置きながら、自分なりに慎重に言葉を紡ぎ、喋り、書いてきた。目立つわけではなくとも、それが職業というわけではなくとも、人として重要にしたい部分だと思ったからだ。

 しかし、「当事者以外が語るな」という明確にしてざっくりとした言葉を目にすると、「周辺人物という当事者性は切り捨てられるべきものなのか」という疑問とともにやるせなさが押し寄せてくる。それは明確に自分に向けて放たれた矢ではないにもかかわらず。
 当事者と非当事者は分断されているべきものだろうか。日常は地続きであるのに。立場は壁なのか、それともスロープなのか。
 
 
 横たわりながら、そんなことをひとりしんとした部屋で思考している。ああそうだ、気が向いたら流星を探そう。冷えた空気は身体に障るだろうが、今は構わない。
 繰り返す思考を宥め賺すには、それくらいの温度が丁度いいだろう。

 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」