困難と感謝、そして定点

 障碍者に対して感謝が足りない、わきまえろといった論調が俄かにSNS上で活発化しており、そのきっかけはともかくとして辟易している。世知辛い。
 世の中はすべて分かり合えないもので構成されていると予めわかっているのに、世知辛いなと思うのは矛盾かもしれない。だが当たり前、当然という単語が指し示すものの落差があまりに大きい。

 無理や危険がなく自分の許される範囲で何かをして、誰かが幾許か楽になる、スムーズになる。その様子を見て「良かった」と思えたなら、ありがとうの前に何かひとつを貰っているような気さえする。
 それを「褒められたいからだ」「愛されたいからだ」と言う人は、見知らぬ通りすがりには手を貸さないのだろうか。
 わたしも誰かもかならず通りすがりになるし、通りすがらなくても遠くまで辿ればどこかに接点があるような気がする。海を越え遠い国の戦争には声をあげる人たちが、なぜ通りすがってもそこにいる誰かを「助けたくない」と言うのだろう。

 無論、不適切な要求で無理を飲むのはおかしい。明らかに行き過ぎたものにはノーが言えないといけない。どのような属性であれ、本来専門的知識が必要で身体的危険を及ぼすような「お手伝い」は互いのために要求しない/させないことが大事だ。労働者と利用者がともに安全であるよう施設を拡充するのも、不用意な行動や発言なきようマニュアル整備するのも経営者。利用者同士にしても同じことで、リスクの見極めは必要となる。それを判断し解決するために安全基準が求められ、知識の共有も前提となる。
 社会福祉の役割とは何か。上げられた声を元に利便性が良くなって今がある。切り分けをしないままに「健常者は」「障碍者は」と大きい主語で対立するからおかしなことになるのではないか。
 一刀両断なんてろくなものではない。現状すぐに変えられない・対応できないものはある、とはいえ疑問や批判を投げかけるのは未来に繋がることもある。その恩恵は健康状態を問わず、気付かないうちに受けていたりもするのだ。エレベーター然り、手すり然り。  
 また法律による定めが変わるタイミングでもある。これまではどうであったのかと、これからはどうあったほうが望ましいのかを、それぞれに分けて考えなければならないだろう。

 交わされる議論に、定点がない。
 必要なのは定点、つまり生きていることそのものなのに、上下するものに価値を求めるから人は不安定になる。
 何かをもたらせる、働ける、作れる、分け与えられる。「~できる」「生きがい」「役割」は病気や怪我や介護で簡単に覆る。
 それらを失ってもなお残る定点が要る。動かないもの、北極星のようなものが。あやふやで浮遊する価値を幾ら与えられても、それは依存にしかならないからだ。
 ベースとなる定点を一度見つめ直して、現状を受け入れて休養して立て直して、そこから掴んでいくしかないこともある。つまり、定点はあくまで上方ではなくベース部分にあるべきだと思う。何かが可能な状態、まして順風満帆な状態など望ましい定点ではないはずだ。

 だが定点にあることを他者は許さない。それは社会の均質化・均一化を強く要求し、一方で困難の透明化と弱者のお荷物化を示す。「普通」を求めるのは現状を許容できない当事者も同じだから、それが裏打ちとなって自責が増す。結果として焦って悪循環に陥る。
 そうではなく、何度でも定点と自らを結び直し、そこで生きることもそこから歩き出すこともできる仕組みが必要だと考える。社会がそうなっていないだけだ。膨大な人間の在り方を定量化できないのに「普通」とは、とどのつまり幻想でしかないのだから。

 「ありがとう」の話も同様で、「ありがとう」が対価として機能するのは合意形成された時だけだ。どれほど感謝の意を示したところで、いつも口だけと言われたら終わる。
 そして対価は、往々にしてエスカレートする。そのたびに一方の肩身が狭くなっていくのは権力勾配であり、延々と続く不均衡でしかない。定点がない。
 より不便を強いられている人、より困難にある人、より不安定な立場にある人に対して「もっと○○を(寄越)しなさい」は言えない。こちらから何かをした結果あたたかいものが過剰ではなく自然に返ってきたとき、こちらもそれに反応を返す感じでいい。
 リフレクションによってまたその奥の意味を得るようなものだ。そこに「ありがとう」が加わったならば、できる側はふたつを手にしていることになりはしないか。

 障害がある人とその介助者(ただし免許がない)を車に乗せて移動することがわりとよくある。とても感謝されるしお土産などをいただくのだが、毎回だと心が痛む。こちらの心がだ。
 行く先々でそれだと、流石に疲弊してしまうだろう。言葉を口にすることで「誰かがいないとできない」ことを毎度再認識するとしたら、それは感謝と表裏一体で虚しさを伴うことでもあるかもしれない。わたしがいないところでも同様のやりとりが繰り返されていることは、容易に想像がつく。
 義務感のやりとりも円滑にするためには必要なこともあるのだろうし、わたし個人がわりといちいち口に出して言うほうだが、わたしは生活労作において自立しているので比較対象として適当ではない。負い目とワンセットになってしまったらつらいのではないか。
 感謝されるのも別に当たり前ではない。感謝をあらわす/あらわさないの二元論ではなく、自然がいい。例えば時系列の中で5回に1回の「いつもありがとう」で報われたような気持ちになることもある。だがそれは日常的に行動している人にしかわからない感覚なのかもしれないし、まったく個人的な感覚ですらあるかもしれない。
 何にしても「してあげる」ことで自己肯定感を得るつもりはないし、回り回ってお互い様かと思う。
 こちらがそのようなつもりでいても、「キレイゴト」「そういうふうに自分を見せたいんでしょう」と穿ったことを言う向きもあると思うが、自分が大変な経験をすると状況や相手がまったく同じではなくてもいつかのお返しのようなところがあるのだ。この感覚はずっと健康でいる人間には伝わりにくいような気もする。

 それに、障碍者や病人には麻痺や言語障害が残っていたり、感情や表情が乏しくなる場合だってあるだろう。言葉を返せないかもしれない、頷けないかもしれない。感謝をわかりやすい形であらわせなかったのかあらわさなかったのか、いちいち問う必要があるだろうか。
 一部を見て全体を決めつけてしまう意味がよくわからないのだ。

 何かをすることによる物質的な利益はなくとも、やりとりが自然でかつお互いに無理がない限り、結局別の何かを受け取っている。それを目的としているわけですらない。長いスパンで見たら人の置かれている状況など不変でもなんでもないし、だから今できることもたまたまそれが可能なだけでしかない。
 そもそもいつできない側に回るのかなんてわからないのだから、関係性に上下などあるはずもないのだ。「できない人」が完治や快復でできる側に回り、「できていた人」ができない側に回ることもある。症状固定でできない側にある人が、ある分野ではできる人よりプロフェッショナルかもしれない。関係は常に流動性を孕む。
 
 感謝も見返りも要請するものやまして強要するものではないし、感情には揺らぎや幅がある。その不安定なもので上下左右に分かれて分断を煽るのではなく、よりよい環境のためのスキームをつくることでどの立場の人も無理なく安全に過ごしやすい状況にしようとはならないのか。
 わかりやすい利得がないと動けない、利他とはかけ離れた世界なのだろうか。より困難な人からも細々と利益を回収しなければならないほどに貧した社会に、わたしはいるのだろうか。
 多分どうしようもない絶望だ。いまここにあるのは。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」