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走る活字中毒は何を見るか。
病める活字中毒、走る。|なつめ @natsumex0087|note(ノート)https://note.mu/natsumex0084/n/n39f0ab16f9d3
承前。
物事を調べる事に貪欲なのは、今にはじまった話ではない。ずっと昔、幼い子どもの頃からだ。
雨が降ると風邪を引き、雪が降れば熱を出す。
調子が良さそうかと思いきや、午後にはあっさり白旗。お迎え必須、病院は常連。
そんな子どもだった。
体力なし、運動神経は行方不明、握力すら満足にない。食が細いから、小さくてやせっぽち。
活字中毒になったのは、ステータスの振り方があまりに偏り過ぎていたことによる必然という節もあっただろう。
本ばかり読んでいたから、成績は頗る良かった。(ただし、ここからは体育は存在すらすっかり忘れたかのように除かねばならない。)
課題をすぐ終わらせて手持ち無沙汰になるわたしを見かねて先生が与えた仕事は、今でいう補助教員のようなもの。
自分の課題を真っ先に終えたら、他のクラスメイトの丸付けと解き方指導。わかりやすいように、相手によって説明を変える。
相手によって説明を工夫すること。
患者という立場は、間違いなくこれをしてもらうもの。
いきなり医学用語を並べ立てて、機序から詳しく説明する医師などお会いしたことがない。そもそも、それでは診察の時間も足りないだろう。
換言というのは、語弊を回避するための労力とワンセットだ。わたしはそれを知っている。
工夫される側としてのわたしには、当然に聞きたいことがある。ただ、何も知らない状況では「何を」「どのように」「どの程度」聞けば良いのかを適切に判断し辛いはずだ。
より短い時間で、聞きたいことを的確に聞く。同時に、相手が換言に要する労力を減らす。判断材料を揃えるために、よりマッチした言語で思考する。
所詮素人だから、何をどうしようが基本的には微塵もわかっていないようなもの。だからこそ道を間違えないための努力はする。それがわたしのモチベーションを構成するひとつの要素なのだ。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」