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「弱き者」と消費

 別に好き好んで見ているわけではないが、インターネットを散策していれば、特にSNS上では炎上によく遭遇する。このところの炎上事案を見るにつけ、この社会はまだまだ他者の生き様を消費することに鈍いのだろうかと溜め息をついてしまう。
 勿論、それは社会の中のほんの一部分で起きたことに過ぎず、全てを反映したものではない。だがこうも頻発すること、そしてそこに寄せられる沢山の「いいね」が、無言で何かを突きつけているような気にすらなるのだ。

 ひとりの人間が「患者である」という点に着目し、あたかも死生観や人生論に卓越した「物分かり」のプロフェッショナルであるかのように扱い、持ち上げること。
 相談者が打ち明ける相手選びに困るようなイシューについて、専門的見地なくしてエモーショナルに取り上げる人生相談。
 恋愛ストーリーの登場人物を性的マイノリティに設定し、特性を矯正するような加害描写を無邪気に描く漫画。
 生活困窮者をほっこり世捨て人のように描き、あたかも前世紀の未開地異文化探訪のようなノリで「ちょっといい話」に仕立てる幾つかの記事。

 どれも、他人の弱さをカジュアルに利用し、消費してはいないか。よりバズり衆目を集め、売るための手段としての弱者を設定してはいないか。
 他者の人生は、より強い立場にある者に消費されるために存在しているのではない。女性が女性性を理由として格差を是とされ、長年低賃金や無償労働で消費されてきたように、様々なかたちでの「社会的弱者消費」や「マイノリティ消費」が存在している。
 立場や属性が違う人間をざっくり括って「異文化」「異世界」と見做す、言わばファンタジー的視点の罪深さが共有されない限り、こうした消費は終わらない。ニューロセクシズムがいまだに蔓延るのと相似だ。

 欠けているのは、対等という概念。自らが弱い立場になる可能性は、最初から考慮されていない。こちら側とあちら側が明確に区別され、そこには深い溝があるかのような眼差しが向けられる。彼岸視による断絶がそこにはある。
 しかしひとたび大病でも患えば容易にわかることだが、社会的地位など突然変わる可能性のある不安定なものなのだ。
 たとえばある人が経営側に立っていて万事盤石のように見えていても、新しい感染症ひとつ流行れば社会ごと揺らぐ。それは昨年来みな見てきたことではないか。

 ある日突然、「強者」は「弱者」に変わる。また、「強者」と「弱者」はシチュエーションとタイミングによって随時入れ替わるもの。
 本当はそこに壁や敷居などない。「強者」「弱者」というカテゴライズ自体、厳密には無理があることなのだ。向こう側の世界ではなく地続きの場所だと知ること、どうしてその視点がないのだろう。

 多いとまでは言えない経験ではあるが、ギリギリ住む家を確保できる、そういう状況に置かれた人たちと接する機会が度々ある。貧困の再生産は大きな社会問題だが、わたしが話す限り、最初から貧困の中にあった人が大半というわけでもない。大まかに、半分より若干少ないくらいの印象だ。仕事を持ち、家族もあり、公助も自助も必要とせずに暮らしてきた人が、何らかの契機で途方に暮れてゆく。
 未払いによりライフライン、そして通信が止められる。情報から離れていく。明らかな症状が出ていても「病院に行けないんだよ、金がないから」と言うその人は、決して異世界の人間ではない。(社会福祉法第2条に基づく無料低額診療制度が、こうした人々の助けになる。しかしそれを知る術に辿り着けなかったり、他人からの助けを申し訳ないと思い詰めてしまう人もいるのだ。)

 素人人生相談も路上生活者美化も、同じ過ちを孕んでいる。「困難のエンタメ化」「キラキラ搾取」が、そもそもの問題から視線をずらしてしまう。問題を真正面から捉えようとしないからそうなる。
 問題解決のためにどうすべきかではなく、耳目を集める言葉や触り心地よい言葉にすげ替えることで、現状を肯定してしまう危険性に目を向けて欲しい。
 その日一日生き延びるために編み出された相互扶助は、豊かに持つ者のライフハックとして利用されるためにあるわけではない。他者の困難や懊悩のすべては、誰かがトイレのようにスッキリするために存在しているわけでもない。そこで展開される物語も、歯を食いしばる強さも、ワンダーランドの見世物ではないのだ。

 残酷な美化、持つものによる持たざるものの利活用、これらにNOを表明していかないと現状は改善されない。キラキラでマスキングし美化してはならないものが、世の中にはあるのだ。他者の困難を矮小化することに、鈍感であってはならない。強くそう思う。
 
 

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 何かを「弱い立場」から発信することは大事だけれど、それがコンテンツになる場合は特に、誰かに利用されていないか考えることはより大事なのではないだろうか。
 適切なバックアップやフォローはあるのか、事前にガイダンスやレクチャーはあるのか。真に適性があるのか、手をつけていい部分とそうでない部分のゾーニングは誰がするのか。
 いきなり放り出されて、良くない結果が生じたら汚名も自己責任では、ちょっとおざなりがすぎる。頼ったり縋る側は、判断能力が落ちているかもしれない。受ける側が「どこまでなら請け負えるのか」「知識と語調と欲望を自らコントロールできるのか」と立ち止まり考えるだけの自制心と自問自答を繰り返すことは必要だろう。
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」