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これさえあれば

 「これがあれば健康に」
 「これさえあれば長生き」
 そんな言葉を耳にするたびに、世間一般よりは早くがん(DCIS)になったわたしはモヤモヤとしたものを感じてきた。

 哀しいかな現実はそう単純でもなく、地産地消の良い食材やバランスに気をつけて日々食事をしても、水泳をしたりトレッキングに参加しても、なお罹るときには罹ることを身をもって知っているからだ。

 でも最近は、冒頭のような言葉もケースバイケースでふんわりやり過ごせるようになってきた。
 みんな御守りが欲しいのだ。免罪符が、根拠のない自信が、拠り所が欲しいのだ。
 いつか倒れるかもしれない、挫けるかもしれない、そんな不安とばかり向き合うのはつらいから。

 実体を持った不安を前にして逃れたいからだろうか、何か罹患に決定的な理由はないかと根掘り葉掘りするような言葉を掛けられたこともある。
 食生活が悪いのか、寝ていなかったのではないか、ストレスは、家系では。
 つらそうだな、と思った。声にこそ出さないものの、当事者にこんな言葉を畳み掛けるほど恐れているのかと。

 どうしたって、ふたりにひとりは罹るのに。

 御守りに縋りたい気持ちで、御守りを探す。御守りを信じたい気持ちで、御守りを高みに掲げる。御守りを手渡す。
 自らを思う気持ちと他者を思う気持ちはいつだって表裏一体だ。不安に駆られて走り出し、足元の石が見えなくなる。花も見えなくなる。そんなことだってあるだろう。

 でもその御守りは「御守り」で、肌身離さず持っていれば必ず事故に遭わないわけじゃない。自衛のために、御守りは御守りなのだといつかわかってほしいな、と願う気持ちは心の奥にある。たとえ余計なお節介だとしても。
 気持ちの安定や安心が大切なのと同じように、何かを過信しないことも大切だから。頼るべき時に頼る確かな術を、見逃してほしくはないのだ。悲しみは小さいほうがいい。

 
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」