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問いの向こう側

 大事なことだと思うので、ツイートをnoteにもまとめておきたい。

 何かを患っている人やそうした誰かを支える立場にある人が、専門家の適切な助言を得ながら、自分の趣味などで息抜きすることがある。
 時折そういう人たちに向かって「いまここで遊んでいていいの?」と否定的なニュアンスで問う向きがあるが、これは動機はともあれ、あまりよいことではないと思う。

 体力に加え頻度や状況、日程や予算などをそれぞれ見定めたうえで、ひととき楽しむことさえも咎められてしまう(またはそう感じる)としたら、たとえそれが心配から生じた問いであれ心が傷ついてしまいかねない。
 第三者からは計り知れないものがあるのは誰しも同じ。ほんの少し前にも書いたような気がするが、楽しいことを楽しんでいるその空間で、周囲も含めて楽しいままにできるのは、マナーのひとつだと思っている。

 4月にもそんなことがあったのを、何となく思い返した。薔薇の、細い茎に生えた棘のような声色だった。イベント中、
 「でもこんなところにいて、大丈夫なんですか?」
 の問いに
 「うん、ダメなら来てないですよ。」
 と返したのを覚えている。帰ってからバスルームでこっそり、なんとも言えない気持ちを流したのも。いつだって、ダメそうならば即座に引き返す覚悟はあったのだ。そんな覚悟はもう日常茶飯事だから。

 サバイバーなので、事情を抱えながら趣味を楽しむフォロワーも多くいる。これから夏のフェスやイベントなども増えてくるが、同じ思いは誰にもしてほしくない。似たような話は周りからも色々と聞いた。わたしひとりが過剰に反応してしまった、ということではなさそうだ。
 だが意外とそういう機微のようなものは、他人ごとのうちにはわからないのかもしれない。他人ごとでいたほうがしあわせに決まっているけれど。
 
 患者と支援者、一生どちらの立場にも関係のない人は極めて稀だ。放った言葉が自分に跳ね返ってくる呪いのようなものになってしまいかねない。それは悲しいことだ。
 光や支えとなるべきものを自ら手放してしまうのは、すてきじゃない。

 ここまでつらつらとまとめてきてふと思ったが、そもそもどんな立場の誰に対してであれ、楽しんでいる最中に現実を突きつけるのは粋じゃないよな。腰を折る、なんていう言葉そのままだ。
 腰を折るよりも、眼前のパフォーマンスに腰を抜かしていたほうがいい。少なくとも、わたしは。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」