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「環境」としての「私」──いちサバイバーの視点

情報が、氾濫している。
もう20年も前には指摘されていた。情報のカオス、玉石混淆で善も悪も白も黒も渦巻く時代。今はそれだ。

誰でも世界に開かれた発信元として存在できる。それは情報技術の恩恵である一方、不確かな情報や、あからさまに弱者を狙い撃ちした搾取が横行するようにもなった。

「文責」や「署名」「制作著作」のない、出所不明の情報が、それを持つものと同様に扱われていく。勿論、匿名でも正確な情報提供をしている善意の発信者もいる。だが裏取りが必要とされる発信者ならば誤ればその周知がなされるものを、出所不明では責を負う必要がない故に訂正されないことが多い。訂正がなされても、最初に出回った情報よりも多く拡散されることはほぼない。これもまた問題だ。
さらに、身分を偽ることが出来るのも匿名ならではの問題点だ。専門家を騙る偽者が、偽の情報を尤もらしく拡散出来てしまう。

そんな時代の要請として、情報リテラシーの重要性が強く叫ばれるようになった。
医療においてもそれは同じだ。メディカルリテラシーを身に付け正しい情報を得ること、患者自身がその利益のために正しい情報を正しく利用することは、疾患と向き合い闘う上で非常に重要だ。

学ぶということは、別に特定の分野に限ったことではなく、その人の人生を拡張してより良いものにする。危険からの回避、多くの気付きを得るためのベース、そして豊かな彩りにもなろう。
さらに分野横断的に学ぶことで、また新たな視点を持つことが可能になる。蜘蛛の巣のように張り巡らされた知識は、必ずどこかでその人自身やその周縁を救う。

ただ、ひとつ気にかかることがある。
誰もが同じように学べて当然だと思ってはいないか。
「患者が学ぶのは当たり前」という空気が、そこにありはしないか。

世の中には様々な困難を抱えた人がいる。わたしの身近にもそうした困難は存在する。がんだけではない。公言するしない・見た目にわかるか否かに関わらず、辛さを抱えた人たちは思うよりずっと身近にいる。障害しかり、難病しかり、様々な困難を抱えた人が他の病気になることもある。
環境的な困難の存在も忘れてはならない。貧困や家庭事情、複雑な要因が時に絡み合う。

わたしの育った環境には、当たり前に家庭用の医学書籍や医師の闘病記があった。お誂え向きに様々な辞書が並び、市販教材が与えられ、どれをどれほど読んでも解いても良かった。自宅の本棚のように図書館を利用出来た。
それがスタンダードとは、かつては思っていたが今は全く思わない。
わたしは、特に裕福な家庭の生まれではないにせよ、おそらく非常に恵まれていたのだ。

人はそれぞれの人生を生きている。
同じ病名がつけられても、世代が同じでも、育った地域が重なろうともみんな違う。
同じように情報をキャッチし、享受し、咀嚼して活かせるというのは、理想ではあれ現実ではない。
学生時代のテストと何らかわらない、同じ話を読みまたは聞いたところで、理解度も各々異なるはずだ。

デファクトスタンダードを「当たり前に理解している/理解できる」ことに求めれば、余裕のない、または理解度の高くない人々は追いやられてしまう。
医療という高度に専門的かつ日々更新されている分野で、素人が常にそれを求められるべきだろうか。知識を持たなければおちおち受診も憚られる、それは正しい姿だろうか。それは誰のためになるのだろうか。

医療倫理の四原則というものがある。 自律的な患者の意思決定を尊重する「自律尊重原則」、患者に危害を与えることを避ける「無危害原則」、患者に利益をもたらす「善行原則」、医療資源の公平配分である「正義原則」。
自律尊重には当然ながら知識が要る。そのために情報を提供するのも医療の仕事だ。わたしのようないち患者からすれば有り難いことである。
ただ、医師が常にコミュニケーション巧者とは限らない。医師は(それを理由にすることが正しいかどうかはさておき)多忙だ。平易かつ丁寧に情報の受け渡しが可能とは限らない。動揺している受け手が、それを落としてしまうこともあるだろう。
「主治医でも患者でもない医療者」──たとえば患者支援センターが医師と患者の隙間を埋めてくれれば良いのだが、そのためのリソースは果たして充分だろうか。

患者は学ぶといい。
これはそのとおりだ。役に立つ。

患者は学ばねばならない、それをしないならば自己責任。
これを医療側から発せられたら、それはどのような影響を生むだろうか。そこに断崖はありはしないか。患者にすべての責任を負わせることは、正しいだろうか。

がんに限らず、病気になれば、多くの人は不安や恐れを抱える。それまでの非日常が日常になる、そのドラスティックな変容の中で、常に正解を叩き出せるとは限らない。基礎知識という土台があってなお、サジェスト汚染や口コミや派手な広告のキャッチーさに惑わされることもあるのだ。

医療はわかりにくい、専門的知識だ。門外漢がどんなに書籍で、またはインターネットを使って学んだとて、そこに実地の経験は伴わない。どんなに賢くなろうが、どこまでも素人でしかない。豊富な症例も、そこから導き出される知見も、チャンピオンケースやまたはその真逆にあるノワールの確率も、然るべき教育なくしては文字と数字の羅列でしかない。カプラン・マイヤー曲線の示すものと現実を、素人が容易にリンクさせられるだろうか。
だから大枚叩いたキャッチコピーは、巧妙な方法でそこにつけこむ。

また、正しい情報に万人がアクセスできるとも限らない。SNSでの発信は、SNSを出来るツールを持った人々のうち、さらに限られた人数にのみ届く。正しいものであれ、その伝播は媒体で届く中の一部に限定される。

だからこそ、発信は様々な媒体で行われてほしいと願う。医療専門家が発信するだけでなく、様々なプロフェッショナルが自らの専門的見地からその発信に関わり、持ち寄り、時に分かち合って欲しいと思う。しかも大勢で。そうすることで、重い荷物を少しずつシェアするように、トップランナーだけが発信元となり疲弊することを回避出来るのではないか。
広く広く、様々な層に届くように。いつしかそれはより良い環境へと繋がるはずだ。

では、わたしという患者には何が出来るだろうか。

わたしが周りに乳がんについてペラペラ明かしているのは、「11人にひとりが罹患するメジャーな病なんだから、嫌だとか怖いとかつべこべ抜かしていないで検診くらい受けておけよ」と思っているからであって、もっと配慮しろよ的な意味合いでは全然ない。
男性も乳がんあるし、気を付けなさいよと。
(Twitterより)

わたしは周囲にとってひとつの「環境」だ。
その及ぼす範囲はごく狭いだろうが、その範囲の中で学んだことや経験を渡すことは出来る。
とは言え、それはn=1だ。付け焼き刃の知識や剥き出しの経験談を素人の見解で受け渡しすることは、それはそれで危険を孕む。

乳がんひとつとっても、ステージやサブタイプによって治療は様々だ。他の要素──たとえば別の病気や困難があるかないか、ひとりひとりバックグラウンドは異なる。
しかし乳がんを経験していない人が語る乳がんは、「乳がん」として一括りにされがちだ。おそらく様々な病気で、このようなことは起きているのだろう。正しく伝えるには、まず自ら経験していないことはしたり顔で語らないという分別と、それなりの技術を要するはずだ。

わたしが出来ることは、正しい知識、主にガイドラインへの誘導だ。公衆衛生のごく小さな要素としての「私」が、誰かの迷い道をほんの少し照らすくらいなら出来る。
わたしのための知識が環境としての私に繋がる時、そこに新たな学びの価値が出てくるのではないか。

学んで当然なのではない。学べなかった人を責めるのでもない。学べた人からコネクターとなって、正しい情報と次の誰かを結びつけていく。

専門的知識は専門家のフィールドだ。誰かが迷い込んだなら、そこへの道案内はきっと出来るだろう。そうありたいと思う。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」