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極私的そこそこ良くない時の過ごし方

そこそこ良くない時って、テンション上がらないし、続くとやさぐれますよね。

うっかり忘れ物に落とし物など自分に原因があるようなことから、責任転嫁や手柄の横取りなどのもらい事故に至るまで、良くないことなんて起こしたくないし、起きないようにできることを気をつけていても、やっぱり起きる。がっくり。

問題の大小で消火(問題を解決、または後片付けをすること)や消化(溜飲を下げて前を向くこと)にかかる時間はそれぞれだけれど、そこを通過しないことには次に行けない。できればすっ飛ばしてしまいたい苦しい時間です。

今日はそんな、そこそこ良くない時の私流の過ごし方について書きます。

1 信用できる人、3人に聞いてもらう

なにを話しても絶対に味方で居てくれる人に話を聞いてもらいます。できれば、よくないことが起きた環境のことをよくご存知の方がそのうちのおひとりで、最初がその方だといいと思います。

起きたこと、それに対して自分が感じたこと、どうなってほしかったのか。必ずこの3つをセットでお一人ずつに全部聞いてもらいます。

繰り返しているうちに、怒りや悲しみが少し落ち着いて、自分が感じたことから、どうなって欲しかったのかについて話の配分がシフトしていきます。そうすると、許せない、悲しいと感じた芯の部分がどこだったのか、私がなにに重きを置いているのか自分の価値観の輪郭が顕になってきます。

人に聞いてもらうことで自分のことを言語化し、鏡のように自分を観察することで、自分の価値観を認識しておけば、以降は譲れない部分に抵触するような判断基準を持つ人や事象を、予め避けたり準備するよう行動することができるようになります。それが心理的安全につながります。

また、人に聞いてもらうと意見をいただくこともできます。ひとりでは到底見つけられなかった目の覚めるようなものの見方だったり、時には共感だったり、あるいは自分への愛ある叱責であったり。信用して話を聞いてくれること自体孤独から随分と救われますが、違う視点から見てもらうことで急に視界がクリアになることもよくあります。

話を聞いてもらう時に大切なことは、カッコつけないことです。聞いてくれる人が不快にならないような言葉を選ぶ配慮は必要ですが、みじめな気持ちや意地悪な気持ち、到底人には言いたくないような情けない失敗についてもできるだけありのまま話すことが、聞き手が鏡になり消火と消化のヒントをくださるコツだと思います。

私は32, 3歳くらいまでできなかったように思います。せっかくみんなに時間を分けてもらってたのにもったいなかった…カッコつけのナルシスト、かつ人から嫌われることに対してとても臆病なのでそれだけ時間がかかるくらい私にはとても難しいことでした。

素のままができるようになると、早く価値観の芯の部分にたどり着けるためそこそこ良くない状態から切り替わるのが飛躍的に早くなったように思います。

2 書いてみる

人に聞いてもらって芯が見えてきたら、今度は書いてみます。どうなりたかったのか、でもどこへ辿り着いてしまったのか、行きたいところへ行くためにはなにが必要だったのか、ギャップを埋めていきます。

ここがわかればもうほぼ消火も消化も完了です。
あとは足りてなかったところを補うだけです。
書くとまた必要なことが目に見えるので、感情を脇に置いてゴールにたどり着くための考え方や手段を自分の中に定着させることができます。

この時点で思い出してまだ誰かやなにかにムカつくなら「新しい靴でホヤホヤのイッヌのう◯こ踏んだらええねんバカタレが」と書き込むか、ブサイクな似顔絵を描いてクシャクシャに丸めてポイするとちょっとスッキリします。紙じゃなくてデータの場合は、ゴミ箱の名前を「地獄行き」に変えるだけでもデータを捨てる時にざまあみろと言う気持ちになれます。

稚拙かもしれませんが、多分私は一生う◯こ踏めバーカバーカ言って溜飲を下げようと努力していくんだと思います。バカで結構、聖人君子になれなくても私は私が気持ちよく生きていくことが大事です。書いて捨てるくらいならどうせ相手には届かないし、取り返しのつかない不幸を願うのでなければ相手にだって反省のきっかけとなるかもしれませんし。縁切りついでのご褒美みたいなもんです。

3 読み漁る

どうしても怒りや悲しみが長続きしておさまらない、どう考えても答えに辿り着けない、そんな時は関連の本や記事を読み漁ります。気がすむまで、自分が欲しい言葉や考え方を見つけるまでがむしゃらに。

負の感情を持つ時やものごとがうまく回らない時の根幹にあるもののひとつは、無知なのだと思います。パズルのピースが足りていない状態。ものごとやできごとの組成、背景や経緯を知らなかったり、人の立場や感情に配慮が足りなかったり。

頑なになる時ほど学びが足りないのだ、というのがここ数年の私の実感です。現状に満足しているのでは決してないのに変わることも怖い、または成功体験が積み重なりすぎて同じやり方を捨てられない、そうなると停滞に突入してそこそこ良くない状態になっていくことが多いように思います。

「余地」は必ずあり「常識」は時代で覆る。40年以上生きると社会も環境もそして自分も少なからず変化があるので、これでいいという状態は刹那的にはあっても永続的には存在し得ないものだという気づきがしんしんと自身の中に積もります。

また、過去に通用したことが通用しなくなるというような普遍の真理もまた、自ら学ばねば体感する機会があるまで知る由のないことなのだと思います。先人が遺して下さったお知恵を知識としてストックしておけば、走馬灯を見るような重大な危機に役に立つかもしれません。引き出しになければ出してくることもできないので、やはり対抗手段は多いに越したことはありません。その時が来れば知識を自ら知恵に変えてまた残すことができ、後身の方々が何かしら役立ててくださるかもしれません。命と共に知恵もリレーです。真理の輪廻の中に自らも参加するという点において、視野を拡げ、人の輪を拡げることで「そこそこ良くない」ことが気づいたらちっちゃく見えていたなんてこともあるかもしれません。

話を戻すと、そこそこ良くないなぁと行き詰まりを感じる時は、自省して足りない部分を謙虚に補う時だと決めておくと、徒に人を責めたり、事柄に執着して周りが見えなくなる状態で時間を浪費することから早めに抜け出せる気がします。


これらは極私的な話で、学術的に証明されているわけでも、誰にでも当てはまるわけでもないかもしれませんが、備忘録のつもりで残してみました。文字にするとなんかやけに腹落ちしました。

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