プロットや設定を考えると小説が書けなくなってしまう

 僕は小説を書いているのだけれど、タイトルにもある通り、プロットや設定を考えると書けなくなってしまう。考えようとすると頭が真っ白になり、ほとんど一歩も進めなくなってしまうのだ。

 プロットや設定を考えると、自分の中の「イメージ」が失われてしまうのかもしれない。鮮やかな情景や、言葉にできない切なさ、詩情といった具体的な場面や感覚が、考えるという、抽象化を避けることが難しい行為を通すことで、その生命力を失ってしまう。そんな感覚があるように思う。

 だから小説を書くときはとりあえず何も考えずに書き始め、自分の感性を頼りに、物語が自然に出来上がるのを願いながら書き進め、運が良いと作品になる。そういう風に書いている。

 もはや小説を書くというよりは、長い詩を書いている感覚だ。

 こんな風に書くのはとても楽しいし、実のところ、個人的にはなかなか良い作品が書けていると思っている。もちろん僕がそう思っているだけではあるのだけれど……。この方法にも問題はなくはないのだが、今のところ僕はこの書き方を気に入っているのだ。


 ……話を戻そう。


 もともと僕はプロットや設定を作る派だった。ほとんど作れたことはないので(人生で作れたのは一回だけ)、「作ろうとする派だった」というのが正確かもしれない。

 というのも、僕は何か物事を始めるとき必ずその方法論を学ぶようにしているのだけれど、小説の書き方や物語の作り方を解説している本の多くには

「プロットをしっかり作ろう」

 だとか

「設定は書く前にある程度作り込んでおこう」

 だとかいったことが書かれていたからだ。律儀にそれに従ったというわけ。

 ハウツー本とは不思議なもので、読んでいるときはこの方法なら絶対に書ける、いや、この方法しかない、という確信を僕に抱かせてくれるのだが、実際にやってみるとまったく書けない。もっとも、それがハウツー本というものである。

 そんなわけで僕は、あるとき開き直って何も考えずに小説を書いてみることにした。そしたら書けた。あっさり書けてしまった。人には向き不向きがあるが、小説の書き方も同様だったのである。

 小説が書けないことを悩んでいる人の中には、現在実践している方法論が自分に合っていない人も多いのではないのかと、僕は推測している。

 もしかつての僕のようにプロットや設定の作成段階で手が止まってしまう人がいるのなら、勇気を出して何も考えずに書き始めてみることをおすすめする(僕ごときがアドバイスするのもあれなのだけれど)。もしかしたら僕のようにあっさり書けるようになるかもしれない。


 もちろん、小説が書けることと良い小説が書けることは、まったく別の問題である。もっとも前述の通り、自分の感性を頼りに書いた作品は良い作品が多いように僕は思う。




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