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楓のワルツ

22175

右目が見えなくなった11歳の誕生日の夜に楓は現れた。

月が綺麗な夜だった。
カーテンの向こうがわは月明かりに照らされ
ひっそりとしたシルエットがポツンと浮かんでいた。

「楓だよ」

楓が姿を現したとき
ジャスミンの香りが遠くからしていた。

楓の現れた翌朝は
部屋のあらゆる物が壊され荒らされていた。

その後しばらくの間、楓は姿を見せなかった。

月が半分に欠けた晩、楓はまた何時ものようにやって来た。
「双子座流星群がそろそろ落ちてくる頃だよ。」
楓は岬の手を取り、ベランダへと連れ出した。
月が雲に隠れ、辺りはまっ暗だった。
「何も見えないよ。」
岬には楓の顔もよく見えていなかった。
全てがぼんやりと霧の中に隠れていた。

「岬にあげる」
そう言って楓は
ぼうぼうっと光る星の残像を
岬の左目に残した。
「きれい」
星の残像は小さな砂となり
視界のすみっこからゆっくりと消えていった。

楓は岬を抱きしめた。
「大丈夫だよ。岬。双子座流星群はちゃんと海に帰っていったよ。何も心配いらないよ」

「星がどうして海に帰るの?」
岬の声が夜の風に響いたとき
そこにはもう楓の姿はなかった。

そして楓はしばらくの間また姿を現さなくなる。
楓が現れる度、
岬の腕にはヒエログリフの文字が刻まれていった。

腕は血で赤く染まっている。
不思議と血を見ていると
スーと意識が遠のいていくような心地良さがあった。
文字が増えていくたびに岬は
ベートベンの第8番 ハ短調 作品13 悲愴
を聴いた。そして耳で覚えた音をギターで弾いてみる。

ギターの振動が胸に響くのは心地良い。

ギターを弾いていると
いつの間にか楓は岬の隣にいる。楓は空中をじっと見つめながら
岬の奏でるギターの音に聴き入っていた。

楓は岬の血のにじんだ腕の文字に触れ
「この文字が17個集まったとき
空を飛ぶことが出来て月に届くんだよ。」
といった。

じっくり腕にできた文字を見つめていると
もうじき空を飛べそうな気がしてきた。

あるとき楓は岬に言った。
「私のことをしゃべっちゃダメだよ。
私は内緒の子供だから。内緒にしていないといけないの。」

岬は楓の言うとおりに黙っていた。

黒い影が部屋にやって来る日
いつも岬は部屋に鍵をかけ
クローゼットの中に隠れていた。
黒い影は鍵を開け部屋の中に入ってくる。
岬は息を飲み込みぎゅっと目をつぶった。
そんな時決まって楓は岬のとなりにいてくれた。
楓は岬の震える手をいつまでもしっかりと握っていた。

岬が12歳をむかえた22175は
月が消え
星の降る
静かで綺麗な夜だった。
忘れられた誕生日に
岬は小さなカップケーキを2つ用意した。

楓と2人でお祝いしよう。

窓の隙間から柔らかな風が入り込んでくると
岬は踊りたくなった。

ベートベンの第8番をかけて
岬はワルツを踊った。
一人でくるくる回っていると
楓が姿を現した。
岬と楓は二人で手をつないで踊った。

「一人より二人が楽しいね」
岬がそう言うと
「うん。そうだね」
と楓がほほえんだ。

昨日出来たばかりの文字のあとが
時折ズキズキと痛んだ。
腕がズキズキと痛む間だけ
岬の頭の中は静かになった。

その次の朝、部屋はまた大きく荒れていた。
真っ白な壁にいくつもの赤いシミが四方に出来ている。
部屋を覆う憂鬱な空気は
大きなクジラが冷たい海の底でため息ついたあとのようだった。
どれだけ部屋が荒れていても
ギターだけはいつもちゃんとそこにあった。
ギターは透明なベールを纏い
そこにいながらも
いないかのようだった。

岬の左目も見えなくなったとき
はっきりと楓の顔を見ることができた。
楓は岬と同じ顔をしていた。
その日以来、楓は消えることなく岬の隣でずっと眠っていた。

岬はギターでベートベンの第8番 ハ短調 作品13 悲愴を弾いた。
楓がうっすらと目を開け
「おはよう」と言った。
「おはよう」
岬のギターの音色を楓は目を閉じて聴いていた。
「目を閉じると見えなかったものが見えてくるね」
そしてふーと息を吐きまた眠った。

岬は最後の文字を自ら書き足した。
頭がしーんと静まりかえった後
水の流れる音を聴いた。
小鳥が跳ねる鼓動を感じた。
腕の痛みを感じ始めると
背中がむずむずしてきた。
白い羽が無数に生えてきて
そして岬は空を飛んだ。
大きな羽を羽ばたかせ舞った。空を泳いだ。
ぐんぐん上空に上がり月を訪ねた。
月に咲く小さな白い花を楓に届けた。
甘い甘い香りは風の中をダンスして岬の周りを囲んだ
眠っている楓の手に触れると
白い小さな花は赤い花になった。 

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