Black&White

道江は自分が透けていることに気づいた。
はじめは浅黒かった肌が、だんだん白くなっていき
「最近きれいになってきたんじゃない」
と言われて喜んでいたのだが、
ついに右手が透けてきたのだ。
しかし、日に日に白さを増していく顔にはうっとりと見とれてしまう。
幼い頃から、浅黒い肌が悩みだった道江は、
今月の初め、良く効くという美白の薬を手に入れたのだ。
「これ本当に白くなるから一日2粒しか飲んだらだめだよ!」
と念を押されていたのだが、
2粒ではよく分からなかったので、
一日4粒から、さらに6粒へと増やしていった。
すると翌朝見違えるように白くなり、
その白さは光っているかのようだった。
美容部員だった道江は、もともと肌はとてもきれいだったが、
色が黒かったので、夏の間はなかなか美白のコスメが売れなかった。
なんとしてでも成績を取りたいと思い、
色が白い人にお手入れの仕方や、食べているものを聞いて回った。
海には絶対に行かない人や、昼間は外出しない人、
中にはコーヒーなど色の濃いい飲み物は飲まないようにしている人など実に様々な人がいた。
その中でも、道江が一番興味を引かれたのが、
幼なじみの千香の話だった。
千香も元々は色が黒く、道江と千香は幼い頃姉妹に間違えられるほどによく似ていた。
中学までは一緒だったのだが、高校、大学は別々の所へ行った。
それでもお互いお正月の年賀状や誕生日の際には
連絡を取り合っていた。
連絡は取り合っているが、会うことはなかった。
そんな千香に、偶然会ったのは
仕事帰りに立ち寄った、駅の本屋だった。
「道江?」
ふと顔を上げると、つややかな黒髪ボブの女性がいた。
一瞬誰だか分からず、戸惑っていると
「千香だよ。忘れちゃった?」
と笑いながら千香はいった。
屈託のない笑顔は昔とちっとも変わらない。
「千香なの?久しぶりー!」
久しぶりに再会した千香ははっとするほど白く、
すれ違う人が振り返るほどに美しかった。
以前の千香とは全く違う真っ白な千香に
フラッシュバックした思い出がついていかず、
面影が鮮明になるにつれて、徐々に千香の縁取りを思い出していった。
顔立ちは同じだが、色が違うだけでこんなにも印象は変わるのだ。
千香と道江はお互いの再開を喜び、近くのバーに行くことにした。
見れば見るほどに
千香の肌は透き通るように白く、なめらかな肌をしていた。
その白さはまるで暗闇でも輝きを忘れないダイヤのようだった。
しばらく道江は千香の話が聞こえないくらいに
千香に見とれていた。
「聞いてる?」という千香の声にはっとした。
「あ、ごめん。千香があまりにもきれいで。
本当にきれいになったよね。」
「ありがとう。道江も相変わらずきれいだよ。って、お互いほめあってるね。」
そういって千香はグラスに入った真っ赤なワインを一口飲んだ。
顔だけではない、グラスを持った手も、
胸元も真っ白だった。
道江もハイボールをごくごくと音をならしてのみ、
唐突に聞いてみた。
「どうしたら白くなれるの?
私何やっても全然白くならなくて、それで色白の人に色々聞いてみるけど、
そんなの私だってやってるよ!って思うような事しか情報がなくて、
もう皮膚移植しか手はないのかなって。」

「道江の気持ち、すごくよく分かるよ。
私もそうだったから。私さ、地黒だったのがずっと悩みで、
それでいろんな皮膚科に通って相談してたの。
目指したいのは白人女性の肌なんですって。
でもさ、肌の白さって、限界値があるらしいの。
ほら、二の腕の内側って白いじゃない?
あれが、自分の持っている本来の肌の限界値らしいよ。」
道江は自分の腕の内側を見てみた。
透き通る白さではないにしろ、内側は少し白い。
「私が目指していたのは、自分の限界値を超えた白さだった。
マイケルジャクソンって黒人だったけど、白くなったじゃない?
彼は遺伝性の病気だって言われていたけど、
私は病気でも何でもいいからとにかく白くなりたかったの。」
千香の肌が、お酒を飲んだせいか、どんどん紅潮している。
真っ白な頬にはうっすらと小さなピンク色の花が咲いているようだ。
千香が手に持っている真っ赤なワインの入ったグラスは
ガラスに閉じ込められた一輪の赤いバラに見えた。
道江はますます千香に見とれていた。
「道江がどうしても白くなりたいなら教えるけど。
誰にも言わない約束で。」
千香は2つ返事で答えた。
「もちろん!誰にも言わないし、私、本当に白くなりたいの!」
この浅黒い肌とおさらばできるのなら、なんだってするつもりだ。
「わかった。明日ここの病院へ電話してみて。
私からの紹介だって言えば、話は通じるようにしておくから。
まだ日本では使用が認められていない薬で、
誰にも言ってはいけないらしいの。
もちろん、特に害はないんだって。
だから、芸能人や美意識の高い人たちの間ではこっそり流行っているみたいなの。
だって本当に白くなるんだよ。自分の限界値を超えた理想の白さを手に入られるなんて
幸せじゃない?」
世の中は空前の美白ブームだ。
白いことこそ、美しく
白いことこそ、素晴らしいのだ。
千香と別れ道江は駅のホームへ向かう。
電車を待っている間、
千香から教えてもらった病院の住所と電話番号が書いてある
紙をもう一度見直した。
学生の時から変わらない千香の丸文字。
やわらかくって、女性らしくてあこがれていた。
「まもなく2番線ホームに電車が参ります。
白線までお下がりください。」
聞き慣れたアナウンスは威勢良く駅構内に響いていた。
今日はいつもより飲み過ぎていたのに酔いはすっかり冷めている。
「明日、忘れずに電話すること」
自分に言い聞かせ、胸が踊るのを感じていた。
道江はしっかりした足取りで電車に乗った。
次の日、道江は病院へ電話をかけた。
3コールほどなり、電話に出たのは
感じの良い40代ぐらいの女性だった。
「はい。神林クリニックです。」
「あ、あの、森さんの紹介でお電話しました。坂本です。」
「森さんのご紹介の坂本さんですね。森さんよりお話は伺っています。
いつ頃ご都合よろしいですか?」
道江はすぐにでも薬が欲しかった。
テーブルに置いてあるシフト表を横目に見ながら答えた。
「今日は空いていますか?」
「今日でしたら、、、3時頃空いていますよ。」
「あーよかった!では3時にお願いします。」
あっという間に予約はとれた。
時計を見ると、まだ朝の9時だ。
今日は1日何も予定はないので、
午前中は家の掃除をした。
朝の音楽はワーグナーと決めている。
壮大さを感じるワーグナーの音楽は朝にぴったりだ。掃除に集中できる。
もともときれい好きなので、部屋は整然としている。
部屋の掃除の後は、決まってお気に入りの有機コーヒーを飲む。
「はあ。」
珈琲の香りが広がるきれいな部屋。ワーグナーの力強い音楽。
これこそ充実した休日の朝だ。
これから手に入れるであろう美しさを想像すると自然と笑みがこぼれる。
私は今日から白くなるんだ。

病院に行く前に、駅のカフェで昼食をとることにした。
駅から神林クリニックは歩いて3分くらいで着く。
駅の右ななめ前のケーキ屋の隣にクリニックはある。
お昼はベーコン卵のキッシュと野菜スープのセット。
お昼時を少し外してきたので、店内は思いのほか空いていた。
そこで読みかけの本をじっくり読みながら、
お昼を過ごした。

クリニックは小さくて真っ白な建物だ。
中に入ると、空いっぱいに広がる夏の入道雲のように壁一面、真っ白だった。
小さいがとても清潔感があって好感がもてる。
「こんにちは。坂本です。」
「こんにちは。坂本さんですね。掛けてお待ちください」
女性は今朝、電話で応対してくれた人だろう。
実際は50代くらいの女性にみえたが、透き通るような白い肌を持っていて、
ふくよかな外見をより魅力的に美しく見せていた。
道江には白いというだけでもう何もかもが美しくみえるのだ。
すぐに名前を呼ばれる。
「坂本さん、中へどうぞ」
中に通されると、細身の60代ぐらいの男性が座っていた。
白髪交じりの頭だが、壁も何もかも白いせいか、その先生には透明感があった。
おじさんをみてきれいだと思ったのは初めてのことだった。
この先生は、きれいだ。
「森さんのご紹介ですね。
ある程度はもう聞かれているのかな?」
先生の声はふわっと空気を舞い、ゆっくり道江の元へやってきた。
「はい。誰にも口外しないようにと聞いています。
誰にも口外しないですし、とにかく白くなりたいんです。」
道江の必死さが先生にはおもしろかったようで、笑いながら
「そうですか。わかりました。
本当に驚くほど白くなりますからね。
ただ、今のところ副作用はないようですが今後どうなるか分かりません。
それでも試したいですか?」
「はい!お願いします。」
「それではお薬を出しておきますから。
1日朝と夜1粒を飲んでください。いいですか?一日に飲む量は2個までです。
これを守らずに消えてしまった人がいるんでね。本当に気をつけて。」
「消えるとは?」
道江は少し怖くなった。
「実はここだけの話、透明人間になるんですよ。」
道江が言葉を失った顔をしていると先生は大きな声で笑い出した。
「うそですよ。そんなわけないでしょう。以前容量を守らなかった人が、体調不良を訴えていたのでね。
その人は一日に6粒も飲んでいたんだけどね。容量さえ守っていれば副作用はないですから。」

クリニックを出た道江は、近所のスーパーへよって帰ることにした。
肌のために、食べるものには気をつけている。
このスーパーにはオーガニックの食材が置いてある。
オーガニックの野菜は味が濃厚でみずみずしくて美味しい。
食べるものに気をつけている道江の肌は本当にみずみずしい。
肌は黒いが、みずみずしくて、毛穴が見当たらない。
今日は玄米とわかめのお味噌汁に大根のサラダ、
それにゴーヤと豆腐、卵だけのゴーヤチャンプルを作った。
昼が遅かったので、道江は夕飯を軽めにとった。
さっそく美白の薬を1粒飲む。
今日は興奮したせいか、とても疲れていた。
早めに休もうと道江は10時にはベットの中に入った。
翌朝、起きてすぐに鏡を見た。
なんとなくだけど、肌が白くなっている気がする。
ほほのあたりがピカッとしていた。
身支度を済ませ、リンゴ、全粒粉パン、珈琲の簡単な朝食を取り、
薬を飲んだ。

よし!

鏡の前に立ち
「私は世界一の美容部員。私は美しい美容部員」
そう言い聞かせ、気合いを入れる。
そうでもしないとデパートの華やかな世界には立っていられない。
その日はやけにテンションが高く、
美白セットも1日の目標の10個を早速売り切ってしまった。
「お客様、こちらのセットをお使いいただくと夏に負けない強い肌にしてくれますよ!
私はお日様が好きなので、外に出ている事が多くて、焼けていますが、
これをしっかり使っていたおかげで、肌自体はとても元気です。」
そうゆうとたいていのお客さんは
「本当貴方の肌、キメが細かくて健康的できれいだわ。
爽やかだし。サーフィンしているの?」
と聞かれる。生まれてこの方サーフィンなんてしたことはないが
そんなときには
「海が好きなんです」と答えるようにしている。
そうやって会話している内に、1個、また1個と売れていき、
娘の分もと2個購入する人もいた。
ここまで連続で売れたのは初めてだった。
きっと飲みはじめた薬のおかげだ。
これはすごいかもしれない。

飲み始めて3日が過ぎた頃、
今日の夜ご飯にいかないか?と千香からメールが来た。
道江もちょうど千香と話したいと思っていた。
今日の夜、空いてるよ!と返信した。
道江と千香は、今日はイタリアンレストランにきた。
ここのパスタは生麺を使っていてとても美味しいのだ。
道江はオーガニックトマトとモッツレラチーズのパスタ。
千香はエビとアボカドの和風パスタを頼んだ。
まずはビールで乾杯ー
「なんだか道江少し色が白くなったんじゃない?」
千香に言われ、思わずにやけてしまう。
「そうみたいなの。あの薬すごいかも!
今日、職場の同僚にも白くなった?って言われた。」
「たまに一日6個飲むとさらに白くなるの早いよ。
先生には止められているんだけどね。」
そういえば、千香はこの間会ったときよりも
また一段と白さが増している。
「そうなの?
飲んでみよっかな?でも大丈夫なの?先生は副作用があるかもしれないって言ってたけど」
「だから、たまになんだよ。たまにしか飲まない。
1週間に1度だけ6粒飲むの。私、一生この薬は手放せないわ。
魔法の薬だと思う。」
千香が目を輝かせながらそういうと
道江も深くうなずいた。
「だって、人生変わるよ。
薬を飲み始めて、周りの反応が変わって,どこに行っても皆、私に優しい気がするの。
何よりも自分に自信が持てるのが良いのよね。今まではどこか自分に自信なんて持てないでいたもの。」
うつむきながら話す千香の真っ白な首筋に道江は見とれていた。
人間離れした美しさがそこにはあった。
美しさはある一定の基準値を超すと
もはや人間として認識できないほどになる。
神の領域というやつだ。
だからアフロディテは海から生まれたのだし
超越した美は人間界ではなく神話の世界に住むようになったのだ。
何よりも美しいという言葉が千香にはぴったりだった。
千香を見ている時に感じる甘酸っぱいような苦いような気持ち。
なんだかこの気持ちは学生の時に千香に感じていたものと似ている。
「私も薬を飲み始めた次の日からおもしろいくらい美白セットが売れているの。本当自分でもびっくりだよ!」

「道江なんだかすごく輝いてるもん。
それは白くなったからとかではなくて、
なんていういうか自信が出てきた感じ。
自信が道江を輝かせているのだと思う。」
そう千香に言われ、道江は夢を見ている気分だった。
目の前にいる千香に触れてみたいと思った。
触れて確かめないと、千香がちゃんと存在しているという
確かなものが確認できないような気がしたのだ。

パスタを食べ終わり、お互い2杯目のお酒はグラスワインを頼み、
チーズの盛り合わせも追加した。
お互い肌がほんのりと紅潮している。
「とにかく、良い薬に出会えてよかったよね。」
思う存分話し込み、二人は店を出た。
「またね」そういって千香はバス停に向かい、
道江は駅に向かった。
今日は2粒飲んでみよう。そんな事を考えていた。
2粒を飲んで寝た次の日の朝は、さらに白さが増していた。
白く発光していたのだ。
職場の皆からも驚かれ、何か手入れを変えたのかと聞かれたが、
「特に何も」
と答えていた。
それからは白さへの変化がおもしろくなり、
初めは1週間に1度だった4粒が5日に1度になり
そのうち分量も増え、
3日に1度は6粒をとるようになっていた。
もう誰が見ても道江は白く、そして輝いていた。
薬のなくなるペースが速くなったが、先生は何も言わなかった。
クリニックの客は日に日に増えている気がするし、
先生もいちいち道江を覚えていられないほどに、
とても忙しそうだった。

飲み始めて、2ヶ月目にそれは起こった。

朝起きてみると右の指、第一関節までが白さを通り越し透明になっていたのだ。
道江はこのことを千香に伝えたくて連絡をするが
その日は千香と連絡が取れなかった。
次の日も千香からの連絡はなかった。
その日は薬を飲むのをやめてみた。
すると翌朝には指の形らしきものが現れた。
透明さを保ちつつも本来あるべき場所へ見慣れた指は戻ってきた。
触ると手の感触は無い。
遠目には指はあるように見えても
指の先端には触れることは出来なかった。
中身のない実像だけが、そこにはあった。
同時に、あんなに白かった道江の肌も元に戻ろうとしていた。
白く光っていた肌は輝きが薄れ
元の自分が少しずつ顔を出してきた。
それは息を殺して静かに隠れており
今か今かと出番を待ちわびている、
もう一人の本来の自分だった。
指が消えることよりも、元に戻ることの方が道江には怖かった。
やっと手に入れた完璧な白さなのだ。
少しずつ忍びよる恐怖には
薬を再開し指は手袋で隠すことで対処していこうと自分に言い聞かせ納得させた。

仕事は丁度2連休だった。
これほどまでに休みが嬉しかった事は未だかつて無い。
連休2日目の今日は神林クリニックに行き、事情を説明した。
先生は黙って道江の話を聞き、じっと見つめていた。
道江の実態のない透明な指先を見て、
「坂本さん、少しの間入院しましょう」
といった。入院なんてできない。
第一、仕事も休めないし、お金もないのだと伝えると
「このままだと全てきれいに消えてしまいますよ。
白さを極めると行き着くところは透明なんです。
いいですか。冗談でも嘘でもありません。
取り返しがつかなくなる前に、私は入院を勧めます。」

先生の一言に道江は入院を決意した。
まだ使っていない有給がある。
実家の母の身体の具合が悪いので一週間ほど休暇が欲しいと店長に話し、
道江は休みを取った。
丁度デパートは夏の閑散期に入っていたので、長期休暇は取りやすかった。
入院の前に千香に電話をしたが、やはり千香は電話にでない。
どうしたんだろう。
漠然とした闇が広がる世界に千香がポツンと立っている光景が目に浮かんだ。
千香はもういないのかもしれない。
そんな頼りない感覚が道江を支配した。
すべての手配を終え、
道江は病院へ向かった。
受付で手続きをすませ、名前を呼ばれるのを待つ。
案内されたのは病院の地下だった。
地下は広々としている。
奥行きが広くて、とにかく明るい。
道江が案内されたのは205室。
「こちらが坂本さんの部屋になります。」
中は一人部屋だった。
「出入りは自由です。
薬が完全に抜けるまでは、外出はできませんが、
奥に行くとちょっとしたカフェもありますし
植物園のようなものも在ります。
図書室の本も読み放題ですので、ご利用くださいね。」
「図書室が在るんですか?」
「はい。奥の突き当たりを右に行くと沢山本を置いています。
ほとんどドクターの趣味で集めた物ですがすごい数ですよ。」
入院って暗いイメージを想像していたが、そうでもないみたい。
それにしても人の気配という物を感じないのは気のせいか?
看護婦が部屋から出て行ったあと、道江はベットに腰を下ろした。
明るくて、すがすがしささえ感じてしまう。
荷物を整理して、カフェに行ってみることにした。
カフェには3人くらいの人がいた。
皆本を読んでいるのだが、半分消えかけている。
よく目を懲らしてみると、10人くらいの人がいたが、ほとんどが消えていた。
道江は心臓の高鳴りを感じた。
バクバクいっている。
「道江?」
振り向くと、誰もいなかったが、かすかに空気が動くのを感じた。
目をこらすとうっすら浮かび上がる輪郭。
それはまぎれもなく千香だった。
「千香!?」
道江はそんなはずはないと思いながらも名前を呼んだ。
「久しぶりだね。元気にしていた?
ここに来たって事は、道江も消えかけているんだね。」

「千香?どうして消えているの?」

「私は治療をやめちゃったの。
だって薬をやめたら黒い昔の自分に戻ってしまうんだもの。
私はやっと長年求めていた理想の自分になれたのに、
もう絶望してしまって。人生に。
たいしておもしろくもない人生だったのを
生きていてよかったって思えたのは、白くて美しい自分になれたからなの。
そうじゃない自分なんて生きていても意味ないなーって。
世の中って、たいてい醜い物があふれているじゃない?
自分もその一部に染まり、そうなっていくのがずっと怖かったの。」

「千香は肌が黒くても十分美しかったよ!
そのままでもとても素敵だった。
私はずっと千香の事が好きだったんだから。」
道江は泣いていた。驚きと、絶望と、出会えたうれしさと
終わりの見えない環状線にはまり、
あらゆる感情は一緒に混ざり
どうしたらいいのかよく分からなくなっていた。
出口が見あたらない。
千香のため息が聞こえた。
それは胸の奥から深く吐き出すような深く底の見えないため息だった。
「ありがとう。本当の事を言うと
肌が黒いとか白いとか結局どうでも良かったのかもしれない。
透明になれた今はそう思うの。
私は常に心をまっしろに保っていたかった。
なんの混じりっけもない本物の真っ白。
それはとても清らかで、純な物で、私の理想だったの。
私は周りに染まっていく事がこれ以上耐えられなかった。
深い自分の軸の部分でそう思ったの。
私はここへ来たときにはもうほとんど手遅れだったし、
残されていたわずかな元の姿に戻れるチャンスを自ら手放したの。
今、透明になってみて分かった事は、私は消えたかったんだって事。
だからこの透明な姿になれた今が一番幸せよ。」

道江はすっかり言葉を無くしてしまった。
千香は結局、死を選んだんだと言うこと。
そして、肉体を持たない今がとても満ち足りているんだということ。
ここにいるほとんどの人がそうなのだ。
半分消えかかっている人もとても穏やかな顔をしている。
「道江は生きることを選ぶべきだわ。
道江には私にはない、凜とした強さがあるもの。
色が黒い道江も白い道江もどちらも素敵だったけど、
黒い方が貴方らしくて、
黒い中でもしっかりと輝いていた。
いつだって道江の発する強い光に私はあこがれていた。
あなたは、どんな醜さに出会っても、それに染まらない強さがある。
そのままでも十分生きることを楽しめる人よ。
とにかく薬を飲むのをやめて。それだけの事だから。
道江はまだ十分に間に合うわ」

千香のまわりの空気が動くのが分かった。
気配は消えてしまった。
千香は帰っていったんだ。
私は、どうしたい?
生きたい?消えたい?
たいしておもしろくもない人生だ。
しかし、道江には読みたい本や、
聞きたい音楽が沢山ある。
朝の珈琲の香りを胸一杯かぎたいし、
晴れた日の朝は窓を開けて、深呼吸したい。
雨あがりには散歩して、生命力あふれる植物をあきるまでみていたい。
見たい映画もある。
猫と一緒に暮らしたい夢もある。
なんてない事だ。

「なんてない、つまらない事しか思い浮かばない。」

そう道江は口に出した。
そのなんてないそれらの事は確かに道江の生きたいという原動力だった。
暖かい1杯の珈琲に幸せを感じれるのだ。私は。

それから、6日、結果は早かった。
まず薬をやめて2日目で色がドンドン戻っていった。
5日目の朝には長いこと見慣れた顔がそこにはあった。
あんなに黒い肌が嫌いだったのに、
今では見慣れた自分の顔にホッとしている。
私はこのままで十分きれいだと心の深い部分でそう思えた。
それはまだ生きたいという自分を取り戻せた感覚だ。
生きたい。生きたい。これでやっと生きれる。
特に副作用もなく7日目の朝を迎えた。

「坂本さん、お疲れさまでした。
今日で退院ですよ。」

「ありがとうございます。」
この1週間、沢山本を読んだ。
珈琲を飲んだ。
音楽も聴いた。
そしてたまに千香と沢山の話をした。
私は生きるよ。と伝えたときの千香のうれしそうな吐息を道江ははっきり感じていた。
すすり泣く声にも聞こえたが、千香の肩を抱くことはもうできない。
「みんな、なんであんなに白くなりたがるのか不思議だね。」
先生は唐突に話し始め、道江は目が点になった。
「白さだけが美しさじゃないよ。
エジプトのネフェルタリ王妃は肌は黒かったけど
絶世の美女と言われ
ラムセス2世から永遠に愛された唯一の王妃なんだよ。
僕は色黒の女性もとても魅力的だと思うよ。
健康そうじゃないか?
君もその方がよっぽど魅力的だよ。
僕が言うのも何だけど、世間の流行に踊らされてはいけないよ。
全てはあることを刷り込むための戦略なんだから。
白いが絶対的な美とは限らないし
黒いが劣っている訳ではけっしてない。
そもそも美の基準なんて、個人の趣向の問題なんだからさ。
時代によっても変わっていくのだよ。
あえて、変わらない世界共通の美の基準があるとするなら
健康であることだよ。健康でありさえすれば、健康美が手に入る。
健康を損ねてまで手に入れる美はもはや美ではなく、一種の病気だ。
きれいになりたい病だね。
健康があればそれで全てOK!おのずと美は付いてくるから。
あ、あと笑顔!これは男女共通だ。
どんな時もスマイルだよ。スマーイル。」
話すたびにゆーらゆらと
先生の鼻からは終始、鼻毛が飛び出しゆれていた。
落ちそうで落ちない鼻毛を道江は見続けた。
この黒々とした鼻毛も健康である証なのだろう。

先生の言葉を聞き、ネフェルタリ王妃のことを知りたくなった。
一週間の入院生活は充実していた。
受付の人にもお礼を告げ、病院を出ると
日の光がまぶしくて、目が慣れるのに時間がかかった。
さて、実家を南の島にしておこう。
お土産を買わなくちゃ。
近くの沖縄物産店でお土産を買うことに決めた。
道江は思いっきり深呼吸をし、足早に歩き始めた。
ヒールのかつ、かつ、かつ
と言う音が心地よく響いている。


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