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時間のとらえ方〜平凡な毎日に少し嫌気がさしたら〜

高1の頃に現代文の教科書に出てきた「平行な時間と垂直の時間」という文言を未だに覚えていて、むしろ日頃から大切にしています。

日常生活やありきたりな毎日が平行に進んでいくとして、イベントや旅行、懐かしい友人との久しぶりの再会など滅多にないことが垂直に交わる、とその文章で表現されていました。どちらも欠けてはならないし、バランスよく引き合っているのだと。

こんな経験ないでしょうか?
たまには温泉にでも行ってゆっくりしようと、日々の疲れを癒すため羽を伸ばしに来たはいいけれど、二泊もしていると自宅の布団に早く戻りたいな、と思ったり。そうやって日常に戻っていって、でもやっぱり変わりばえしない日常になんだかまた飽き飽きしてきたり。

要は、振り子とおんなじなんですよね。右に振れたら同じように左にも振れる。力学的にそうなっている。時間の流れも同じで、淡々と1秒ずつ刻まれていることには世の中変わりないけれど、どう過ごすか(それをどう感じるか)というのは平行と垂直、日常と非日常で引き合っていて、そのバランスで私たちは保たれている。

この文章を読んだ高1から、意識的に今は垂直だなぁと感じとるようにしています。部活の大会や受験、大人になってからは勝負どころの商談前や地元に帰省するとき、一人海外旅行とかフルマラソン中、最近だと出産のために陣痛に耐えていたあの10数時間など。


で、ここからが個人的には大事なことで。
垂直を意識できることで、平行も意識できるようになりました。これが私の中ではけっこう大きいのです。

見逃してしまいそうな日常に埋もれる些細なことに気づけ感謝できたり、愛おしく思えたり。感謝できるか当然と思うかは雲泥の差があり、どちらかと言えば感謝に敏感でありたい。その方が幸せ力は高い気がして。もしくは当たり前と受け取った瞬間、次の“垂直な感度”も鈍ってしまいそうで。

日常があるから非日常がある。普段の何気ないことにこそありがたみを感じるのって、幸せ力をたくさん磨いている感覚です。磨けば磨くほど、自分だけのピカピカ度を増していける。
それは誰とも比べることのできない、唯一無二のぴかぴかです。

平凡な毎日に嫌気がさしたら、思い切って環境を変える(垂直な時間)もよし、まずは目の前の日常(平行な時間)の“今”に意識を向けてこれも当然じゃないのだと考えてみるもよし。どちらにしても、自分の意思で場を動かしていくことはできるんだよなと。

#現代文がすき
こんなタグを見つけて、noteにしてみました。
そういえばあの現代文が載っていた教科書、好きだったから引越しの際も常に持ち歩いていたんだけど、今回の引越しで目にしなかったな。もう自分の中にしっかり取り込まれたから、ということにしておこう^^


ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

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