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Oral history  カンルーと谷川政子の不思議な縁

カンルーという中国人の友人の不思議な話です。そもそもの出会いは、一昨年の8月、私が黄河賓館に住んでいたとき、「磧口に日本人が住んでいるらしい」という噂を聞いて、彼女の方から尋ねてきてくれたことに始まります。彼女は大連の大学で日本語を専攻していて、夏休みで故郷の臨県に帰っていたのです。

その後は、住んでいるところも離れているし、直接会う機会は少なかったのですが、ネットを使った交流と、何より彼女は、標準語とこの地の方言と日本語が理解できるという、中国広しといえどもこの3つの条件を兼ね備えた人はおそらく他にはいないほど貴重な存在だったので、日本から学生たちがやって来たときなど、何かとお世話になることが多かったのです。

その彼女にしばらく前、三交に住んでいた、戦後中国に残留した谷川政子さんという女性の話をしたことがありました。

そのことを彼女は自分の父親に話し、彼が妻に話すと、彼女は、自分の母親がその日本人と、同じヤオトンに住んでいたことがあるといったのだそうです。ちなみに臨県(*臨県の行政所在地も臨県)と三交は、バスで15分くらいの距離です。

ややこしい話ですが、つまり、カンルーの母方のおばあさんと谷川政子さんが同じヤオトンで住んでいたことがあり、そのことをカンルーもお父さんもそれまで知らなかったそうです。私が話題にしたことから知るようになった家族の歴史だったのです。以来私は、いつかそのおばあさんに会ってみたいものだと思っていました。

そして今年の春節、休暇で大連から帰省していたカンルーと一緒に、三交の高喜愛おばあちゃんを尋ねました。おばあちゃんは、自分の娘、つまりカンルーの叔母さん夫婦と一緒に暮らしているのですが、そこでその叔母さんの夫、つまり義理の叔父さんにカンルーは生まれて初めて会いました。で、その叔父さんの叔父さんにあたる人が、谷川政子さんの夫の崔さんだったのです。カンルーはそこで初めてその事実を知りました。

このややこしさは、図に書いて確かめないとわからないと思いますが、カンルーには、血縁ではないけれど、遠い親戚に日本人がいることがわかったのです。しかも、私と出会うことがなければ、もしかしたら生涯知る機会はなかったかも知れない事実だったのです。何ともかんとも不思議な縁だと思いました。

会ってみた高喜愛おばあちゃんは、雰囲気といい話し方といい、とても優しい感じの人でした。政子さんも日本人女性として、いろいろ辛いことはたくさんあったと思うのですが、こんな優しい中国人と同じヤオトンに住み、姉妹のように助け合って暮らしたという話を聞いて、あぁほんとうに良かったねと、胸が熱くなりました。

高喜愛ガオシーアイ老人(85歳・女)の記憶   ガダァー焉

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戦争が続いていたあの時代、日本軍は三交に駐留していた。彼らはしばしば私たちの村にやって来た。彼らが来たとわかると、私たちはすぐに家を出て別のところに隠れた。彼らがどんな服を着ていたかすら、私たちはまったく知らなかった。彼らの姿を見てから逃げるのではなく、ただ“日本人が来たぞ!”という叫び声を聞くやすぐさま逃げるだけだった。ただわかっていたことは、彼らはとてもたくさんで、大砲を持っていて、ひとたび砲声が聞こえると、それはいつまでも続いたということだけだった。

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