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Oral history   曹老人の左腕

15日に晋劇が始まった高家塔ガオジャーターというのは、樊家山から一旦谷底の段家塔まで下りてから、山すそを廻り込んで2時間弱のところにある村です。ここに来た劇団はかなり立派なもので、お客さんもいろんな村からたくさん来ていました。14,000元(≒20万円)だったそうで、この村がそこそこ金持ちの村であるということがわかります。すぐ隣の段家塔に大きな炭鉱があるので、そこで働く人が多いのかも知れません。また、こういう時に、村の出世頭がど~ん!と大金を出すということもままあります。村の人たちで出し合って劇団を呼ぶのです。

樊家山の雲順も来ていて、彼の友達のところでお昼をごちそうになっていると、家人がこの村に曹さんという、昔日本軍に片腕を切り落とされた人がいて、今も健在だというのです。私が会ってみたいというと、雲順が知り合いだということで案内してくれました。

村のはずれの方にそのヤオトンはあったのですが、案内を請うと出てきた老人は、80歳くらいに見える小柄な人で、着ていた左腕のセーターの袖がむなしく垂れ下がっていました。しかし雲順が私の意向を伝えると、曹老人は何も話したくないし、写真も撮られたくないといって、奥の方に引き下がってしまったのです。私は突然の訪問が非礼であったことを詫びたかったのですが、言葉が伝わらず、結局黙って辞するしかありませんでした。

ところがおばあちゃんの方は屈託がなく、写真を撮ってほしいというので、扉の前で何枚かシャッターを押して帰ろうとすると、彼女が丼に一杯の紅棗を持ってきました。お礼をもらうようなことではないし、正直いってどこに行っても紅棗をもらうので、部屋中に山積みになっている状態なのです。「持っていけ」「いえ、けっこうです」を繰り返していると、曹老人が奥からすっと出てきて、黙って私が持っていた袋の中にザザッ!と入れてくれたのです。

あっという間の出来事でしたが、その途端、私は不覚にもぼろぼろっと涙を流してしまったのです。曹老人がいきなりやってきた日本人の私を拒否したのなら、それはむしろ当然のこととして納得もしたのですが、思いもかけない彼の無骨な優しさに接した瞬間、私はどうしようもなく切なくなってしまったのです。

奥に引っ込んでいた短い間に、彼は決して忘れることができない失った左腕の痛みと、遠来の客を歓待する心との間で葛藤があったのでしょうが、最後にはこの地の風習に従ったのです。60数年の過酷だったであろう彼の個人史に、ドカドカと土足で踏み込もうとした無遠慮な行為を、私は恥じました。

そして数日後、今度は厳家塔で晋劇があったので、私はまた出かけました。厳家塔は高家塔の向こう側にある村です。で、村に入る1本道をひとりで歩いていると、向こう側からオート三輪がやってきました。よく見ると、助手席に乗っているのは曹老人です。あっ、と思った瞬間に向こうも気が付いたようで、老人は車を降りて、ニコニコしながら私に近づいてきたのです。

私たちは自然に握手をかわしました。すると老人は、厳家塔に行くという私に、「帰りにはウチに寄って、今夜は泊まって行きなさい」といったのです。もちろん今度は涙は流れませんでした。老人も私の笑顔を見て、よかったよかった、と安堵したような表情を見せました。   (2007‐03‐26)


その後2回彼を訪ねたのですが、折悪しく不在で、その後は機会もなく、今回ようやく1年8ヵ月ぶりに再会できました。

曹夫妻は私の訪問をとても喜んでくれて、まずはお腹がすいたでしょうとインスタントラーメンを作ってくれました。いくら断っても、これも当地の風習で、客人には粟粥とか麺など、まずは食べるものを出すのです。インスタントラーメンはご馳走ではないにしても、客人に出して喜ばれる、“ハイカラ”な食べ物のうちです。

聞き取りの内容に関しては、標準語への翻訳を待たないと私にもわかりません。ただ、彼が左腕を失くしたのは、嵐県という北の方の戦場で、日本軍と白兵戦の上、刀で切り落とされたということはわかりました。同時に足も切られたそうですが、ほんとうによく生きて帰って来られたなと思います。当時のこととて、医療も未発達、戦場で一兵卒が斃れたところで、誰にも顧みられることなく、むなしく野に屍を晒したとしてもまったく不思議はありません。

そして、その白兵戦で睨み合ったにっくき日本兵の次に出会った日本人が私だったのです。この広大な中国で、そして60数年もの時を経て、こういう人たちと出会える不思議なえにしを思わずにはいられません。

私はこの3年ほどの間に200人を越える老人たちから話を聞きました。彼らのほとんどが、たとえ最初はいくらかのわだかまりを見せたとしても、最後には必ずといっていいほど、「ほんとうに遠いところをよく来てくれた」と暖かく迎えてくれました。

酷熱極寒の過酷な環境を生き抜いてきた老人たちにとって、あえて誤解を恐れずにいうならば、消えることのない戦争の傷跡の痛みをもこえて客人をもてなす心のありようは、古来よりこの地に連綿として引き継がれてきた“風習”ではないかと、私は思っています。         (2007-04-03)

曹汝福ツァオルーフー老人(87歳・男)の記憶  高家塔ガオジャーター

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私は民兵として戦争に参加した。1940年だったと思うが、日本人がここにやって来たその年に私は民兵になった。その頃は嵐県(*臨県の北隣の県)にいた。

私は戦争に参加して負傷した。公傷に属するものだ。私は革命に参加して日本人と闘った。私は賀龍の359旅団に属していた。22歳の時に参軍して嵐県で闘った。あの頃は、日本人に殺された者もいれば、日本人を殺した者もいた。我々の部隊の人間はほとんどが死んだ。7、8人が生き残っただけだ。

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