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Oral history 田家山小学校建設資金

去年の秋頃、「田家山ティエンジャーシャンで日本人を見た」という人と磧口で会って、以来ずっと気になっていたのですが、どうやら田家山の小学校建設資金を日本人が出したというのはほんとうの話らしく、直接行って確かめてみることにしました。

最近は村の六六リョウリョウという、七人兄弟姉妹の六番目と一緒に行くことが多いのですが、バイクで小一時間かかりました。山の上に広がったずいぶん大きな村で、どうやら樊家山の倍以上の面積です。人口は1,500人くらいということでした。

さっそく小学校に行って校長先生の部屋を訪ねたのですが、どうも歓迎されてないようです。お金はどんな人が出したのか?いくら出したのか?なぜ田家山なのか?何を聞いても、その比較的若い女性校長は、不審感を強くにじませた顔つきで、「知らない」と答えるのみでした。それでも、取材できる人を紹介してほしいという私の要望に、しぶしぶながら近くに住む86歳の老人を紹介してくれました。

ところが、校長先生は“知らない”のですが、村の人たちはよく知っていて、お金を出したのはどうやら「日中友好協会」で、金額は60数万元、つまり日本円にして1,000万円近くのお金が村に寄付されたようです。それにしても公務員、特に地位が上の人ほどどうしてこう“官僚的”になるのでしょうか?いずこも同じだなぁとタメ息が出ました。

紹介された李老人は、日本人が学校建設資金を出してくれたのを素直に歓迎していました。それどころか、自分は日本人と戦った民兵だったと、むしろ話したいことが山ほどあるといった感じで、喜んで取材に応じてくれたのです。                         (2007‐04‐22)

ふたたび田家山
2度目の田家山です。実は磧口の李サンア老師の実家が田家山で、しかも亡くなったお父さんは、以前村長さんをしていた人だということがわかり、さっそくミニバンをチャーターして一緒にやって来ました。ひとり暮らしのお母さんも、予定外の娘の突然の里帰りに大喜びで、どこに年寄りが住んでいるか全部教えてくれて、取材にも付き合ってくれました。これはもう仕事がはかどることこの上なく、1泊2日で次から次へと村中を“しらみつぶし”に取材し尽くし、合計11人から聞き取りができました。

先回冷たくあしらわれた小学校へも行き、現村長の家にも行ってきました。そこで村長にあらためて聞いてみたのですが、小学校建設資金を出したのは日中友好協会ではなく日本政府で、去年やって来た戦後初めての日本人というのは日本大使館の人間だというのです。日本政府がなぜこんな小さな村に1000万円も寄付したのかよくわからないのですが、8月15日の落成式のときにはまた担当の日本人がやってくるというので、そのときには真相がわかるでしょう。しかし驚くべきことに、その新しい小学校というのは、まだ基礎もできてないということで、たった2ヶ月の突貫工事でいったいどんな小学校ができ上るのでしょうか?

午後4時に昨日のミニバンが迎えに来ることになっていたのですが、2時ごろからポツポツ雨が降り出し、さきほど運転手から「行けない」と電話がかかってきました。しかし雨といっても傘もいらないようなほんの小雨です。なぜこの程度の雨で来られないのか?サンアに聞いてみると、村に上ってくる道は黄土ではなく紅土といって、黄土よりももっと溶けやすく、一雨降るだけで通行不能になるのだそうです。普段はザーッと降ってじきに止む雨がほとんどなのですが、空を見上げると、高原の遥かかなたまでどんよりと鉛色に染まり、いつ降り止むともしれない日本の梅雨のような空模様なのです。私は一時帰国をひかえて、日々びっちりと予定がつまっているというのに、またしても寒さに震えながらため息つきまくりの“高原の宿”です。
(2007‐05‐10)

李栄学リロンシュエ老人(86歳・男)の記憶   田家山ティエンジャーシャン

日本人はこの村に32回やってきて、数十軒のヤオトンと百以上の部屋が燃やされた。この村で撃ち殺されたのは7、8人だ。数十頭の家畜が略奪された。あのとき捉まった人はみな石門焉に連れて行かれ、金を渡した人は解放され、金がない人は刺し殺された。その中にひとりの民兵もいた。今でも焼かれた家の痕跡は見ることができる。

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