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Oral history  賀家湾村惨案

私が賀家湾ハァジャーワン村に引っ越したのには大きな理由がありました。私は2005年6月に北京から磧口李家山に引っ越して、8月ごろから機会をみては聞き取りを始めたのですが、きちんとしたスケジュールがあるわけでもなく、黄土高原の暮らしにボチボチ慣れながら、村人たちに私の存在を知ってもらいながら、いつまでという期限もなく、要するに、仕事や取材ではなく、フツーに「生活していた」のです。

そうする中で、老人たちに限らず、若い人も含めて、彼らとの会話の中にひんぱんに出てくるのが「賀家湾」という村名でした。それは、当地の人なら誰でもが知っている、一晩で273人が惨殺された、日本軍による「惨案」が起きた村です。

磧口で最初に聞いたときから、いつかは行かなければと思っていました。しかし当然のことながら行きづらく、機会を探っている時に、磧口の古鎮賓館で、樊家山小学校の張老師に出会ったのです。

樊家山村は賀家湾村の隣で、徒歩で往復1時間ちょっとの位置にあります。私はまず樊家山に引っ越して、そこから賀家湾へ取材に通うことにしました。郭老師、張老師と3人でひとつのヤオトンに住み、珍妙なかつ有意義な暮らしが始まったわけです。

張老師は、いわゆる本地人(その地の出身者、郭老師は湖南省出身)で方言が理解でき、かつ小学校の先生というのはやはり信頼が得られます。彼を伴って最初に賀家湾に入れたというのはほんとうに幸運でした。

以来1年間ほど、私は重い取材道具を担いで、山道を上り下りしました。すでに還暦を迎えていたおばあさんが、一眼レフやビデオ、三脚を担いで吹きっさらしの一本道を行き来する姿が、村人たちの目に留まらないはずはありません。

「そんなにすることがあるんだったら、もう賀家湾に引っ越して来たら?」と、ついに村人の方から声がかかるようになったのです。実は私の計画通りでした。2008年5月、樊家山から賀家湾に引っ越したのです。一番最初に村を訪れてから、ちょうど2年という時間を必要としました。

村の長老賀登科老人は、現生存者の中では、事件の内実を最もよく知る人といえるでしょう。事件当時、村の民兵の隊長だった人ですが、とても穏やかな性格の人で、今も狭い村内でたびたび顔を合わせ、お互い笑顔で挨拶をかわす関係です。                   (2008‐05‐30)

*以下、賀老人の話の内容には、やや残虐な表現が含まれます。苦手な方はスルーしてください。

賀登科ハァダンクー老人(83歳・男)の記憶  賀家湾ハァジャーワン
1943年腊月(旧暦12月)18日、日本軍が私の村に来て、20日に惨劇が起こった。私は当時20歳だった。あの日は273人が死んだ。その中に樊家山の人もいた。その前にも日本軍は何回かやって来た。10月、2月、5月にやって来て、最後が腊月で、4回目に人が死んだ。

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