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旅立ちの家

T君との不思議な出会い
私とT君が出会ったのは、去年の8月香港です。沢木耕太郎の本に惹かれて初めての海外旅行にやってきた彼が、繁華街の裏通りをぶらぶらしていたときに、ある古ぼけたビルの、2階に上がる階段がフト目に付いたのだそうです。それはまったくどこにでもある何の変哲もない、狭くて汚い階段なのですが、なぜか気になってしかたがなかった彼は、しばらくその階段を見つめた後に、2階へ上がってみました。

するとそこには、カタカナで『ラッキーハウス』と書かれた、レトロな看板がかかっており、扉を開けてみて、そこが日本人が経営するゲストハウスだということがわかりました。それで彼はその夜に、それまでいた宿からラッキーハウスに移ってきたのです。私が到着したのもちょうどその日でした。

ラッキーハウスは、大部屋に2段ベッドが8つほどドンッ!と置いてあるだけの宿で、泊り客の90%以上が日本人ですから、夜になるとおのずとおしゃべりの輪が広がります。私はそこで自分が今、黄土高原に住んでいることなど話したのですが、ごくごくかいつまんだ内容で、そんなに多くを語ったわけではありません。

その後T君からメールが届いたのですが、彼はうろ覚えの私のメアドに何度も何度も送信して、実に十数回目にしてようやく繋がったのだそうです。その後数回メールのやりとりをして、結局今回の駆け足旅行が決まりました。

実質4日間という短い時間でしたが、幸運なことには隣村の高家焉で、馬に乗って花嫁を迎えに行くという伝統的な結婚式に参列することができ、花嫁よりも先に花飾りの付いた馬にも乗せてもらいました。どこに行っても子供たちに囲まれて、子供好きの彼はとても嬉しそうでした。

翌日は、近くの村で10日に1度の市がたち、まったく言葉ができないにもかかわらず、デジカメと日本タバコで楽しそうに村人たちと交流の花を咲かせていました。おまけに、積雪に彩られた黄土高原は息を呑むような絶景で、短い時間ながら、冬の黄土高原を満喫できたいい旅だったのではないかと思います。さきほど離石からの夜行バスに乗って、T君は無事帰国の途につきました。

しかし、この黄土高原の旅を楽しむということが彼をして、あれほどまでに私に連絡をとってここにやって来たかった、ほんとうの理由ではなかったと私は思っているのです。                  (2007-01-05 ) 

“旅立ちの家”
翌々日、思いの他暖かい日になったので、私たちはグオ老師と3人で、崇里村の高乃清ガオナイチン老人の家に聞き取りに出かけました。昨年の5月にすでに取材させてもらっているのですが、その後私は日本からやってきた知人にビデオカメラを持ってきてもらったので、ぜひとも映像に残しておきたいと考えていたのです。以前は娘さんの嫁ぎ先である樊家山に住んでいたのですが、今は息子さんの家がある崇里村にいます。すでに家人からは承諾を得ていたのですが、高齢でもあり、健康状態があまりよくないという話を聞いて、内心、「急がなければ」という思いはありました。

村の入り口で道を聞いたちょうどその人が、高老人のお孫さんでした。彼女に案内されて私たちは小さな庭を囲んで3方にヤオトンがあるこぶりな家の前に立ったのですが、簡素な庭を見回しただけで、ここが他の家と比べてもかなり貧しいということが想像できました。

扉を押して中に入ると、奥にあるカン(オンドル式ベッド)の真ん中に高老人はぽつんと座っていました。まるで古ぼけた陶器の置物のようでもあり、スクリーンに映し出された黒い影のようにも見えました。7ヶ月半前に会ったときは、部屋の外まで出て写真を撮り、近所の老人たちと雑談を交わしもしたのですが、今は見違えるほどのやつれようで、このときすでに、もう取材は無理かもしれないと私は思いました。老人に辛い思いをさせてまで取材をしようという気はありません。

その部屋は、かまどに火こそ入っていましたが、裸電球すら灯されず、うすら寒々として、人の出入りがまったく感じられない部屋でした。生活用品が触れ合う音もなく、ハンガーに掛けられた衣服やタオルもなく、壁のあちこちに広がる大きなしみはまるで黄泉の国の地図、くたびれはてた夜具は死装束のように白々として、それは私に“死を待つ人の家”をイメージさせました。

老人はすでに意識がときどき途切れるようで、とても私たちの質問に答えられるような状況ではありませんでした。食べ物をもうほとんど受け付けず、医療の恩恵には一切よくしていない以上、彼女はすでに彼岸と此岸のあわいを行きつ戻りつしているのでしょう。

それでも私たち日本人が来たということはわかったようでした。そのうちに、彼女は折りたたんだ夜具の上に丸く覆いかぶさったまま、しばらく眠りたいといいました。私はこの眠りがいつ目覚めるものか、あるいは永遠に目覚めることはないかもしれないという思いに駆られつつ、この時点で取材を断念し、ビデオの電源を切りました。彼女はすでに旅立ちの準備をしている。来るのが少し遅かったのです。

するとそれまでずっとカメラの後ろにいたT君が、うつ伏せになった盲目の老人の枕辺に進み出てそっと手を差し伸べたのです。すると老人は彼の健やかに伸びた若々しい長い指を、骨と皮だけになった土色の小さな手で握り締め、かすかな声で「よく来てくれた。」と言ったのです。

私はこのとき、この間のT君の不思議な行動の謎が解けたような気がしました。いえ、単なる偶然の積み重なりには違いないのですが、私はこんなふうに思いたかったのです。

まもなく80年の苦難の人生を終え、墓標のない高原の小さな土盛りの中に還っていこうとしている高乃清老人は、自分がこの地に生まれ生きた証を、遠い異国の誰かに伝えたかったのだと。

酷寒酷暑の黄土高原の、地図にものらない村の片隅に生を受け、ときに飢えに苦しめられ、ときに旱魃と闘い、日本軍の侵略に8年もの長い長い眠られぬ夜を耐え、そして、15歳で他家へ嫁ぎ、8人の子を産み育てあげた彼女の、それでも自ら思い起こせば“幸せだった人生”。

それが、私という媒体を通じて、時空を超えて日本の心優しいひとりの若者に伝わったのではないか?だからT君は、その呼びかけに応えるために、はるばる海の向こうからやってきたのではないか?老人はT君の手をとったときに、きっとそのことがわかって、「よく来てくれた。」と礼をいったのではないか?

最後に老人は私の手を握って、「また来てくれ、きっとまた来てくれ」といい、私は「必ずもう一度来るので、それまで元気でいてください」といとまごいをして、その“旅立ちの家”に別れを告げたのです。  (2007-01-10)              


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