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Oral history 日本兵といい関係だったという話

崇里チョンリィ
崇里という村に行ってきました。高原の尾根道を登ったり下りたりして1時間半。しばらく前に離石から帰るバスの中で会ったじいちゃんから、村に来て写真を撮ってほしいと頼まれたからです。どうやらこのバスの運転手(=オーナー)の渠さんが、さかんに私の噂を振りまいているようでした。

崇里村という村は平頭ピントウ郷に属し、この平頭というのはときどきお年寄りの話の中にも出てくる地名で、とりわけ日本軍による戦争被害が大きかった村です。前々から行きたいと思っていたのですが、ちょっと二の足を踏んでいたところでした。今回は村人の方から予想もしなかった声がかかって、いいチャンスです。

ここでは10日に1回、ガンジーといって「いち」が開かれるので、その日に合わせて行ってみました。市といっても小さな広場に、ほとんどがビニールシートを地面に敷いて商品を並べるだけのもので、調理用品や荒物、衣料品、日用雑貨などを売る店が10店ほど出ていました。ちょっとした食べ物の屋台も数軒。ヤオトンの障子を張り替える季節なのでしょう、バイクに白い紙を山積みにして売りに来ているおじさんもいましたが、バランスを失ってやっぱりこけていました。

情報が行き渡っていたとみえて、「タダで写真撮ってくれるんだってぇ?」と、次から次へと希望者がカメラの前に立ってくれて、最初にちょっと気になっていた“日本人嫌い”の人には、直接的には出会いませんでした。

子供たちも日本人が来たと聞きつけて、そろって見物に来る始末です。さりげなく(本人たちはそのつもり)私を通り越して、3、4歩過ぎてからフッと振り返るのです。生まれて初めて見る日本人、教科書に出てくる‶恐ろしい″日本人が、自分たちと見分けがつかないくらい似ているのを、彼らは後になっていろいろ噂し合うのでしょう。

市は村の社交場で、老若男女入り乱れてわいわいがやがや、日中は日差しがあって暖かく、ものの売り買いよりも人の交流がとても賑やかでした。これからしばらくの間、10日に1回、この村をたずねてみようかと思っています。                        (2006-11-27)

薛清年シュエチンネン老人(89歳)の記憶  崇里チョンリィ
1937年に日本は中国侵略を開始し、45年には戦争に負けた。37年当時私は19歳で、(兵隊に行ってからは)離石の近くの大武というところに住んでいた。

当時日本軍は紅軍と戦うためにトーチカの建造を3~4年かかってやっていて、自分は工人として一緒に働いたことがあるが、日本人との関係はとてもよかった。1日に銀貨を1枚くれて、とてもいい稼ぎだった。40年にトーチカが完成して私はまず村に帰り、畑を耕した。その後に兵隊に行った。遠いところには行かずに、大武に行った。

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