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Oral history みかんのビン詰

一昨日、こんなことがありました。磧口の近くに馮家会ファンジャーホイという村があって、そこの小学校の校長先生を知っているので、磧口に行くついでに寄ってみました。賀家湾小学校のイーハーのバイクに乗せてもらって1時間の距離です。

まず校長先生のお母さんを紹介してもらって話を聞き、彼女の紹介で元八路軍の馮廷発老人に取材しました。そして彼に日本軍に焼かれた痕が残っているヤオトンに案内してもらい、その戻り道で2人の老人に出会ったので、話を聞きたいとイーハーに伝えてもらいました。すると男性の方は、「話すことなど何もない。話したくない」。女性の方は「私は今でも日本人を恨んでいる」ときつく言い放ったのです。

あぁそうかぁと、私は帰ろうとしました。ほんとうに時々ですが、当然のことながらこういう事態もあります。ところが、馮老人が「この人はたったひとりでこんな活動をしているのだから‥‥」と語りかけると、その男性の表情がじきに緩んできて、問わず語りに語り出し、私はあわててビデオを廻しました。老人はあちらの山塊、こちらの河辺を指差しつつ、彼の脳裏には未だにくっきりと当時のイメージが残像しているようでした。

そのうちに彼は自分の家に寄らないかといい出し、私たちは5人で彼のヤオトンに向いました。まず私を部屋に招じ入れると、カンの上に座ってくれとうながし(カンの上というのが親しい人に勧める席)、奥の部屋に消えると、しばらくして小さなみかんのビン詰を持ってきて私たちに勧めてくれたのです。もうこの頃はみんなニコニコ顔で、老人たちの間で話が弾みました。彼らはみな戦後初めて日本人を見たのであって、特におばあちゃんは、当時はすぐに隠れたので実際には日本人を見たことがなく、私が生まれて初めて見る日本人だったのです。

ビン詰めのみかんは、彼らにとって決して安いものではないのでちょっと躊躇しましたが、フタを開けて勧めてくれたので、遠慮なくいただきました。それは私もまだ幼くて、日本中のみんなが‶貧しかった″頃、病気のときにだけ食べさせてもらったみかんの缶詰とまったく同じ味がして、甘く切なくなつかしく、まるで遠い昔にすでになくなった、私の故郷の風景が一瞬見えたような気がしました。その後には“日本人を恨んで”いたおばあちゃんがまた別のおばあちゃんの家に案内してくれ、最後には手を握り合って再会を約して別れたのです。

そして、こういうことは珍しいことではなく、頻繁に出会う状況であり、老人たちはみな純朴で心優しく、(私の経験した限りでは)ほんの1、2時間で“日本人への恨み”は緩やかに氷解し、「遠いところからほんとうによく来てくれた」と精一杯のもてなしで労ってくれるのです。そして、こういう人たちに出会えるからこそ、この黄土高原の片隅の“三光作戦”の村で、私は3年間彼らと生活を共にし、聞き取りを続けていられるのです。(2008-05-26)

馮廷発ファンティンファー老人(83歳・男)の記憶  馮家会ファンジャーホイ

日本人は1940年にここにやって来た。41年に私の家を焼いた。私の家はもともと軒に庇がついて高い造りのとてもいい家だった。あの頃我々の村に共産党の食糧保管庫があって、日本人が私の村に来たとき、ある人が彼らに保管庫は山の上にあって、とてもいい建物だと教えた。それで私の家に火が点けられ、3日間くすぶっていた。

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