この世は愛なのかもしれない

SF作品を観る度に思う。
この世は愛でできていて、愛を学ぶ場所なのかなと。
宇宙は無限だと思っているけど、それはまだ誰も自分の目で確かめていない。私たち人間は、証拠やデータがとれなくても、宇宙の色々な可能性を信じている。愛もそれと一緒。映画ビューティフル・マインドでそんな台詞があったことを思い出した。

人間の行動は欲求からくる。その欲求は他者か自分への愛があるからこそ湧いてくるものだ。愛を伝える、表現するために言語が生まれたのかなと思うと、なんて偉大で美しいんだろうと思うし、言葉をもっともっと大切にしなくてはと思う。


「色即是空」
これは私がずっと前から好きな言葉だ。
最初はただ単に単語の音がなんとなく好きだなと思っていた。と同時に、なんでこんなにこの言葉に惹かれしまうのかわからなかった。もちろん単語に出会ったとき、意味も調べた。でも当時は説明文を何度読み返しても理解できなかった。

色即是空とは、般若心経の空の思想を端的にあらわした言葉で、「色」とはこの世の全ての物質や現象のことを指し、「空」とは「うつろな」という意味を持っている。つまり「色すなわちこれ空なり」と読むことができ、「この世のすべての事物は空(うつろ)である」という教えだ。
ただ、この「空」は何も存在しない「無」とはまた違って、「すべての事物はなんらかの原因によって今その姿をしているだけで、不変の実体などない」ということを意味している。物体も自分も人生の苦楽も、すべてうつろなものという考えだ。

この単語に出会ってからも私は今まで通り、ただひたすらに自分の興味のあるものを追いかけてきた。量子力学や脳科学に興味を持ち、ほんの入り口しか理解はしてないけれど(むしろ理解している内に入らないレベルだけど)それらは必然的に、私の好きな宇宙の話に繋がった。自分が感覚的になんとなくで選んでいるものはすべて、自分が知りたいことや知るべきことなんだろうなと、点と点が繋がっていく度に思う。頭で考えるよりも先に、ちゃんと体がわかっている、そんな気がする。
これらの科学的視点を自分の中に取り入れてから、空は原子のことだろうなと思い、ようやく色即是空の意味が腑に落ちた。

「色即是空」の意味を少し理解したところで、「この世は愛かもしれない」に思考を戻して、「空」に「愛」を当てはめてみる。

「この世のすべての事物は愛である」

愛を証明する方程式がないように、愛は物質で確かめられるものではない。
愛を感じられる瞬間は、愛する行動をしているとき、その行為をもらうとき。保管できるものではないし、永遠に続く保証なんてどこにもない。しかし、水のように流れてしまう儚いものでありながら、物質的証拠がなくても存在しているように感じるもの。だからこそ愛を感じられた瞬間は、見えないものをやっと掴めたからなのか、ものすごく愛おしく、暖かくなり、心の奥がキュッと締めつけられたりする。

どのように愛を受け取り、どんな風に行動して愛を与え、どう受け継いでいくのか。私たちはそれを、この地球で試されているのかなあと、そんなことをぐるぐる考えていたら、いつのまにか朝の6時になっていた。
朝の光を浴びながら、頭には仮想現実という単語がふと浮かび上がり、考えるのをやめた。


文章が散らかってきた気がするので、たまに書く習字の写真で締めくくってもらう。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?