再発?

8年ぶりに、ふとんから起き上がれない日が増えている。

からだが言うことをきいてくれない感覚、これがセイフティの役割を果たしていることはよく知っている。

しかし、

春だっていうのに、寝てる場合じゃないのに……動きたいもどかしさと、動こうとするだけ無駄であるという経験との間で、ゴロゴロ転がるしかない。

からだの不調と心の不調は関係しているらしいから、ごろごろするときは、無邪気にごろごろを楽しむのがマイルールだ。
からだが動かないからといって、心まで止めるのは経験上いいことがない。
泣くもよし、笑うもよし、その他諸々なんでもよし。

そうやってごろごろしてると、
8年前を思い出す。

鬱だと診断された日、これが病気でよかったと心底安心した。
そこからの開き直りは、おそろしく早かったと思う。
セロトニンの分泌を促す生活リズムをあきらめ、人間生活の「すべて」を一回やめた。

一回やめて思ったのは、意外と死ぬのは難しいこと。と、
社会に入れなくなることは死んだのと同じようなものなんだなってこと。

当時は家族という社会の最小単位と暮らしていたけれど、ひとり暮らしをしている今よりも社会の外側で死んでいるような気がしていた。

正直な気持ち、家族や知り合いと関わることが、思っていたよりも負担になっていたことをここ最近で実感してしまった。

家族と離れたことで、いかに家庭の緊張感の中で息を殺していたかも実感した。

ふとんから出られなくても、
家から出られなくても、
思うように動けなくても、
じぶんだけの世界に安心していられることが、こんなにも安らかな気持ちになるのを知らなかった。

けど、なんだかんだいって、わしは人がすきだ。
人に会うのはエネルギーを使うけれど、
それでも会いたいと思う人がいて、その人達のおかげで今のじぶんが形づくられているのを知っている。

ただ、あんまり会いたくない人も存在するのが、最近の気づきで、
どうしても染みついた気遣いを発揮してしまうから、疲れるんだと思った。
発揮して"しまう"とはいえ、お互いにとってできるだけ気持ちのいい時間になるようにしたいと思うからこそ、そうしている節もあり、この気遣いはじぶんの長所だと思っている。けれど、それを「じぶんを我慢しなくていい/じぶんらしく振る舞っていい」と言われると、じぶんの良いところが削がれていくような気持ちになる。
それに、じぶんらしく振る舞ったら、この先一生あなたの前に現れない。なんて思う。

この、気を使う人や家族に対して自分のからだの状態を説明するのが難しい。

からだの調子が良くないのは本当だし、いつを元気な状態としていいのかも実はあいまいで、でも元気なのも本当でってなったときに、
どの状態のじぶんも本当だからこそ、
説明するのがめんどくさいし、気を使うのも疲れるなって思ってしまう。

それに8年前と違って、鬱が"風邪みたいに治る(と思える)不調"のような、一昔前よりフランクな位置付けになったような気がして、
「元気そうでよかった」とか「元気になったね」と言われる度に、微妙な気持ちになるのが想像できるし、実際に微妙な気持ちになる。

鬱はフランクな病気ではない。
けど、大袈裟な病気でもない。
この、なんだか矛盾した認識と実態と実感を言葉で説明するのがむつかしい。

日によって違う体調、日によって違う感情、
いつとは言えない不確定要素が鬱には多い。
けれど、仕事や人との日常生活は、ある程度の確実性がないと噛み合わなくなってしまう。
フランクになった鬱は、よりカジュアルに確実性を求めてもいいような気がしてくる。
それは、他者も自分も、鬱が"病気"ではなく"風邪"であるように錯覚するからだ。

そして、風邪になった鬱は
「みんな罹ったことがある」
という同調を生む。

なんとなく、
自分が社会的に病気じゃなくなってしまったような気がした。


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