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水中で息するように暮らしている

泳げない私がダイビングを始めたと言ったら、驚かれたものだ。

フィンと器材があれば、泳げなくても水中で進めるし呼吸できるなんて。ダイビングは間違いなく私の人生に彩りを添えてくれたと思う。泳げないからずっと敬遠していた海の中だったが、見える景色や聴こえる音、全身を伝う水の感覚すべてが新鮮だった。

ダイビングの細かな好みは人それぞれで、海水より淡水を好む人から魚ではなく海底遺跡を見たい人、ナイトダイビング好きまで多様らしい。
私の場合は、南国の浅い海で、水深数メートルをゆっくり漂いながら、カラフルな熱帯魚と明るい光に包まれてのんびりしているのが好きだ。

騒がしい陸地と違って、水中は静かだと知った。
自分の呼吸音がやけに大きく聞こえてきて、口にくわえたマウスピースで息を吸うと、シューーーーーーと独特な音が響く。息を吐くと、ポコポコポコ…と音がする。

そんな呼吸音に耳を傾け、水中の景色を眺めているとなんだか無になれた気がする。

ダイビングには「中性浮力」という言葉がある。
水中で浮かび続ける、いわば無重力状態だ。人間の肺は空気で満たされているので、そのままでは沈まない。息を吐くことで沈んでいく。けれど、沈みきって水底を歩行すると砂を巻き上げるしそこに棲む生物たちに危害を及ぼす可能性もあるから、水中では魚はもちろん岩や砂にさえ触れないように泳ぐ必要がある。

そのとき必要になってくるスキルが、中性浮力すなわち水中に漂い続けられる浮力コントロールである。

中性浮力を身につけるための練習期間を経て、私は温かくて穏やかな浅い海でゆったりと泳ぐことに夢中になった。

きらきらした陽射しとともにカラフルな魚たちがサンゴの中を平和に動き回るのは、いつか夢に見た光景さながらで、シューーポコポコ…という呼吸音だけが聞こえる無重力空間では、一種の瞑想状態になる。とても幸せで、満たされている感覚がする。
もちろん、まだまだ不慣れな私の場合は気を抜くと息を吐きすぎて沈んでいったり、息を吸いすぎて浮かんでいったりするので、完全なる瞑想にはならないのだけれど。

息は一気に吸いすぎず、一気に吐きすぎないように。ゆっくり、長ーく。シューーポコポコ…。

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子どもが産まれた今となっては、次にダイビングする機会はかなり遠そうだ。ひょっとしたら、今後の人生でダイビングすることはもうないかもしれない。10年後、20年後にチャンスがやってきたときに自分がダイビングしたい気持ちになっている確信もない。

そうしたかつてハマっていた趣味や個人の楽しみは他にもいろいろあって、おしゃれして都会にお買い物しに行く気にもなかなかなれないし、「死ぬまでに行きたい旅行先リスト」にはまだ行けていない場所がいくつかあるけれど今や行きたい欲もなくなってしまった。

やりたいこと、行きたいところ、食べたいもの、欲しいもの。全部を手に入れたわけではないのに、もう求めていない自分がいる。やり切った気持ちすらある。

あったはずの積み残しリストはいつの間にやらどこかへ行ってしまって、思い出すこと自体が難しい。以前の私がいろいろ欲張ってくれたおかげで満足できたということにしておこう。

先日、仕事のイベントがあった縁で15年ぶりの北海道に行った。

子供も夫も一緒に訪れた札幌には、「ファンタジーキッズリゾート」という文字通り(子どもにとっての)楽園があって、ほかの観光をさておいて遊びに行った。いわゆる室内遊園地で、赤ちゃん向けの絵本や積み木から巨大なすべり台までいろいろある。1歳8ヶ月になったばかりの息子は、それはそれは楽しかったようで、終始目を輝かせながら笑顔満面で遊び回っていた。

実は自宅から車で20分の場所にも系列店があるし、おかげで札幌ならではの観光にはならなかったが、それでよかった。ファンタジーキッズリゾートは最高だった。

子どもが楽しいことを一緒にやる以上にやりたいことが、今の私には見つからない。心からそう言い切れるのは、今の私にとって家族で過ごす時間が何よりも幸せだからだと思う。

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子ども優先、家族優先、自分の仕事も遊びも非優先となれば、SNSで見かけるかつての知人友人の活躍に心がざわつくこともあるだろうとは覚悟していた。

私のキャリアはほとんど一時停止中で、かろうじて仕事をしているだけに後退はしていないと信じたいが、前に向かって華々しく歩んでいるとは言い難い。
一方で、止まらず前進し続けてきた人たちの栄転や輝かしいニュースを目にすると、本当にこれでよかったのかと自身の選択に迷いが生まれるんだろうな。そんな体験談は散々見聞きしていた。

実際は、だいぶ違った。

ある人は出世して経営者の仲間入りをした。ある人はいつか私が登壇したかった舞台に立った。ある人は羨ましがられそうな大きな仕事を成し遂げて有名になった。

心がざわつかないばかりか、心から「よかったね!おめでとう!」と思っている。本心から祝福している自分がいる。仮に、今のこの “差” が将来的に大きな “差” につながっていくとしても、別にかまわない。だって、私が求めるものはそこにない。

代わりにある私の日常はこうだ。

朝起きると、隣でにまーっと笑う息子がいる。そもそもなぜ息子がベビーベッドではなく私のベッドにいるのかというと、深夜にのどが渇いたと泣いて起き、麦茶を飲ませたら私の隣で寝たくなるらしく、根負けして隣に寝かせていたからだ。

そして、朝は起きるというより大抵起こされている。せめて7時までは寝たいのに、5時台から顔をぺちぺち叩かれ、場合によっては麦茶の入ったマグを投げつけられ起こされる。

寝ぼけ眼で遊んだり再入眠を促すも、最終的にはリビングの遊び場に移動することになり、私は朝ごはんの準備。そこから子ども中心の時間が始まる。

保育園がある日は、夕方迎えにいく。息子は私の姿を見つけるやいなや大喜びで、にこにこ笑顔が止まらない。息子は夫のことも大好きで、パパパパと連呼しながら家路につく。

そして、パパも家にいれば家族3人で食卓を囲む。息子は右を見たらママがいて、左を見たらパパがいる環境が大層お気に入りらしく、楽しそうにごはんを食べている。

嫌なことや不平不満は、意外にもほとんどない。

嫌なことをしてくる相手もいないし、夫に対する愚痴もない。環境に恵まれているといったらその通りなのだけど、どちらかといえば自分が何につけ目くじらを立てることがなくなったから、細かいイライラが溜まらないのかもしれない。

自分にも、自分以外にも、こうありたい、こうであってほしいという期待や欲を以前はもっとたくさん持っていた。

不安なことや将来に対する備えや計画は夫婦でもよく話す。仕事や生活で日々発生するモヤモヤや違和感も何かと口にするが、それらはせいぜい「アボガドの皮を剥いたら中が腐ってて悲しい」のと大して変わらない重みで扱われていく。

誰かや何かに勝手な期待をして勝手に裏切られて憤ることはもうないし、誰かを勝手に評価することも評価されたと感じて一喜一憂することももうない。

ひょっとしたら、私はどこかで誰かに評価されたり批判されたりしているかもしれないけれど、今となってはどうでもいいことだ。私の本業は母親であり、私の所属先は家族だから。呼吸をするような、特別感のない当たり前の日常の中に私の居場所がある。

心にヒールを履いて背伸びして、心にジャケット羽織って背筋伸ばして、これまでやってきたんだろうと思う。

思わず息が止まるほどの刺激に日々揉まれ、時にはわざと大きく息を吸って自分を大きく見せてみたり。しだいに呼吸が浅くなると、やばいやばいと大きく息を吸って吐いて。これがダイビング中なら海面への急上昇と海底への急降下を繰り返しているだろう。間違いなくインストラクターさんに腕を掴まれ止められている。

繰り返される日常の中で、私は一気に息を吸いすぎず、吐きすぎず、ゆっくり呼吸をしながら漂っている。シューーポコポコ…。時には、水のうねりで急上昇や急降下することがあったり、突然岩壁や生き物が現れて避けなければいけなかったりもする。その都度、フィンと呼吸をうまいこと使ってまた元の穏やかな状態に戻っていく。
ポイントは慌てず呼吸を乱さないこと。シューーポコポコ…。

最近ついに夫が脱サラして個人事業主になってしまった。自営業者同士の夫婦だ。これから大丈夫なのだろうか。
シューーポコポコ…。

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