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18歳で一回人生終わった話

18歳の時、私の襟足は刈り上がっていた。

同級生が彼氏だ彼女だ初体験だと色めき立っている中、当時の私は男子と仲良くなろうとかモテようとか、そういう考えが一切なかったのだけれど、唯一の男友達に「なつこ、すごい髪型してるね」と言われたときはさすがに顔から火が出そうだった。

それでも私は襟足を刈り上げた。


ダンスを教える場を持てるようになってから、「いつからダンス始めたんですか?きっかけは?」と聞かれることが増えたのだけど、答えは

「高校生の時。理由は、宝塚に入りたかったから」


毎年3月頃にワイドショーなんかで特集されるあれである。

校舎前で、髪をポマードでがちっと固めた在校生が声高らかに合格発表の瞬間(とき)を告げ、合格者番号が書かれた大きな紙をうやうやしく広げる。

一斉に歓声やら悲鳴やらを放つ、これまたポマードで髪をがっちり固めた受験生たち。

あの世界に、私はいた。

宝塚歌劇団に入りたくて、宝塚音楽学校を受験した。



きっかけは本当にささいなことで、たまたまテレビで目にした舞台映像に一目で恋に落ちたのだった。

もともと目立ちたがりだし、幼い頃、父にミュージカル「アニー」を観に連れて行ってもらったことも、もしかしたら原体験になっているのかもしれない。

とにかく私は、一瞬で、「ここに入りたい」と思った。いや、「ここに入る」と決めたのだった。中学2年の終わりだったと思う。

当時、父が実家に導入してくれていた家族共用の大きなデスクトップパソコンで、私は必死に宝塚への入り方を調べた。

わかったことは

宝塚に入るためには、容姿端麗でクラシックバレエと歌が出来なくてはならない。

そして、受験資格があるのは「受験時に中学卒業あるいは高等学校卒業又は高等学校在学中の方」。つまり、チャンスは中3から高3までの間、多くてもたったの4回だ。

歌はまあ、子どもの頃から人前でよく歌っていたし、カラオケでもそこそこ歌える方だから何とかなるか。容姿は・・・背は高い方だ。顔も、男役っぽい顔立ちをしていると思う。問題はバレエだ。ダンスなんて、やったことない。身体もめちゃくちゃかたい。

宝塚受験生は3歳からバレエやってました!なんて子がザラにいる。「なぜ3歳の頃からバレエを習わせてくれなかったのか」と理不尽なクレームを母につけると、「幼稚園のときちょっとだけやってたけど、自分でやめたのよ」と言われた。なんと理解のある親か。私のばかやろう。

焦りはあったものの、母にたしなめられてとりあえず中3の1年間は高校受験に集中し、高校入学後、晴れて宝塚受験一色の生活に突入した。私に与えられたチャンスは3回だ。

少しでも受験に役立つかもしれないと高校では演劇部に入部。

これは高校演劇あるあるなのだが、ごく普通の公立高校で演劇部に入ろうという男子生徒はほとんどおらず、女子生徒が男役を演じることが多い。私が進学した愛知県の田舎町の高校も例外ではなく、身長が高く宝塚志望の私はこころよく男役を引き受け、ちょっとだけ女子生徒にキャーキャー言われていた。バレンタインには教室まで別学年の女の子たちがチョコレートを持ってきたこともある。

男の子には変な目で見られていた。


大学受験なんてするつもりなかったし、なんなら高1か高2で受かって高校を中退するつもりだったから、授業中は部活で使う台本を開いているか居眠りしているかのどちらかだった。

クラスメイトには変な目で見られていた。


学校が終わった後はバスと電車を乗り継いで名古屋のバレエスタジオまで通った。声楽の先生にもつき、歌唱の訓練も始めた。レッスン代がかかりすぎるのが申し訳なく、学校に内緒でこっそりバイトをしていた。

クラシックバレエを高校生から始めるのはやはり正直、遅い。

白ともピンクともいえない王子様みたいなタイツと、ぴったりとしたレオタードを着てスタジオの大きな鏡に映る16歳の私は、なんだか不格好だった。私って、足が太いな…とか、初めて身体的なコンプレックスを覚えたし、そもそも動きがひどい。つま先立ちをしながらもう片方の足を上げるなんて。16年間普通に生きてきた人間が急にできる業じゃない。苦しすぎて、踊っている途中で気づいたら歯を食いしばり息を止めていた。

それでも希望は捨てていなかった。それまで大きな挫折を味わったことのなかった私は、むしろ「私ならいけるはず」と根拠のない自信を持っていた。

1年目、高校1年の終わり。

初めての受験。会場は憧れの宝塚音楽学校、その場所。

受験科目はバレエ、声楽、面接。

相当数が受験する1次試験の面接では宝塚への熱意など多くを語ることは許されず、「○○番、コニシナツコ、はじめて!」(受験が初めてという意味)の三言で自分を表現しなくてはならなかった。

歌も踊りもまだまだ実力のない私は、男役としていい演技をしますよ!ということをアピールすべく、演劇部で鍛えた低音男役ボイスを張り上げた。

結果は、1次試験で不合格。宝塚受験は3次試験まであるので、合格まではまだまだ遠い道のりである。


宝塚受験生2年目の生活のスタートだった。

自宅では宝塚のビデオを、それこそ擦り切れるほど観て、お気に入りの曲をお得意の低音ボイスで真似して歌っていた。

あまりにも同じシーンばかり観るので、まったく興味のない兄がセリフをタイミングごと覚えてしまうほどだった。(たしか「君に決闘を申し込む!」みたいなセリフだった)

面接の受け方なんていうビデオも発売されていた。

この時わかったのだが、宝塚受験では男役志望でも、清楚さを思わせるような甲高い可愛らしい声を出さなくてはならない。私の1年目の面接は、大不正解だったのだ。(後日この話を友だちにしたら爆笑された)

チャンスはあと2回。

ふと、「受からなかったら、私はどうなってしまうんだろう」と恐ろしくなることが時々あった。小さな子どもが「死んだらどうなるんだろう」と急に怖くなることがあるけれど、ちょうどそんな感じだ。

宝塚に入らない先の人生なんて、想像できなかった。


高2の終わり、2回目の挑戦をした。

結果は同じ、1次試験不合格。


一緒にバレエのレッスンを受けていた一つ年上の友達は、夢を絶たれた。

大泣きして、「なっちゃんは来年頑張ってね」と言ってくれた。

来年、私はこの子と同じ顔をしているのだろうか。

悪いけれど、それは絶対に嫌だと思った。


いよいよ後がなくなった私は、宝塚受験専門の予備校に通うことを決めた。

いろいろと調べた結果、どうやらそういうところに通った方が合格できる可能性が高いらしかった。

東京か、劇団本拠地の兵庫県宝塚市にしかそういった場所はなく、私は両親に頼み込んで宝塚市にある教室に隔週で通い始めた。祖母がちょうど兵庫県に住んでいたので、祖母宅に泊まり土日のレッスンを受けた。その予備校では受験と同じように、ショートカットの生徒は髪を固めてリーゼント(暴走族のようなやつではなく、前髪に大きくウェーブを作って固めるのが宝塚流)を作りレッスンを受けるルールだったから、愛知の自宅で髪型をととのえ、大きなキャスケット帽でそれを隠し新幹線に乗り込んだ。

予備校でのレッスンは、それはそれは厳しいものだった。

宝塚音楽学校の生活が厳しいことは有名だ。そこに入るための場所なのだから、それぐらいの厳しさ当たり前だったのだと思う。

そこではバレエ、ジャズダンス、声楽、面接など受験科目と音楽学校入学後に必要になる技能等々を、元宝塚の先生や、何やら劇団と関係を持っているらしい先生方が教えてくれるのだが、とにかく、言葉遣いや心構えまで、全部直された。

この時私は、「すいません」ではなく「すみません」と言う習慣ができたし、生徒みんなで先生の誕生日に花束をプレゼントしたとき、「こんなもの私は欲しくない。先生が欲しいものを調べもせずプレゼントするなんて、何を考えているのか」とお説教され、花束をつっ返された。宝塚は芸事の世界。師匠との関係はとても重要なものなのだ。みんな「すみませんでした!!」と甲高い声で謝り、泣いていた。
あの花束は、結局だれが持ち帰ったのだろう。


集まっている生徒のレベルも、名古屋のバレエ教室とは全く違った。

それこそ3歳からバレエやってます!みたいな子がたくさんいたし、顔立ちのかわいらしい子やスタイル抜群な子、私よりうんと背の高い子がたくさんいて、先生にも気に入られているように見えた。

バレエを始めて3年目の私は、踊っている途中で息を止めることこそなくなったけれど、まだまだ不格好な踊りを踊っていた。

予備校では実力のある子がちやほやされる雰囲気があった。

たいして踊れない、隔週しかレッスンに来ない私は、ちょっとだけ馬鹿にされていたように思う。


それでも、絶望しているわけではなかった。

夏ごろにその予備校で模擬試験なるものがあって、歌の試験で上位の成績を取ったのだ。(たしか1番か2番だった気がする)成績発表の紙が貼り出された時、ほかの子たちの私への態度が微妙に変わったことをよく覚えている。とても、誇らしかった。もしかしたら、これは本当にいけるかもしれないと思った。

平日は名古屋のバレエ教室、土日は隔週で宝塚まで通う日々。学校の同級生は大学受験の準備に忙しそうだったが、私も忙しかった。


ある日父が会社帰りに、

「これ」

と小さな封筒を渡してきたことがある。

名古屋ー新大阪間の新幹線のチケットが数か月分入っていた。

「がんばりなさい」

言葉数が少なく、あまり私のやることに口出しをしない父の、精一杯の応援だったのだと思う。

この瞬間のことを、私は今でも鮮明に覚えている。 


さすがに高3ともなると進路を担任と話し合わなくてはならず、初めて「宝塚を受けます。レッスンで忙しいので、補習や季節講習には出ません。」と伝えた。

講習には基本全員参加の進学校だったが、担任は理解のある人で私を応援してくれていたし、職員室でも私が宝塚を受けるという噂が広まっていたらしく、通りすがりざまに「小西さん、がんばれよ」とあまり話したことのない先生にも声をかけられた。

受験シーズン終了後、地元の名門大学の合格者名が貼り出される進路指導室前の廊下の壁に、「宝塚音楽学校 小西奈津子」と書かれた紙が並び後輩達がどよめく光景を、ひそかに想像して胸をときめかせていた。

しかし一方で、宝塚合格にはカネやコネが必要であるという記述をネット上で多々見かけ、不安も覚えていた。パソコンの得意な兄には「そんなネットの情報、鵜呑みにする必要はない」と言われたが、私の心は落ち着かなかった。

ある日の夜、不安に押しつぶされそうだった私は、レッスンの帰りに母が運転する車の中で(最寄りの鉄道駅まで、いつも母が迎えに来てくれていた)

「うちには宝塚に通じるコネなんてないんだろうか」

と相談したことがある。

母には「そんなズルイことをしてまで入りたいの?万が一うちにコネがあったとしても、それはちょっと違うんじゃないかな。」というようなことを言われた。

母は正しい。


でも、ズルイことをしてでも入りたいと、あの時の私は思っていた。



高3の終わり。

受験日まであと2週間ほどの時期に、予備校で最終模試があった。

夏の模試のことがあったから、ある程度自信があった。

成績発表の日はまだ生徒がほとんど集まっていない時間に教室に入り、すでに貼り出されている順位表を確認した。


私の名前は、どこにもなかった。


その日、反射的に教室を飛び出して、何も考えず電車に飛び乗り、1つか2つ先の駅で降りて目についたハンバーガー屋さんに入ったのを覚えている。ポテトをむさぼりながら、半泣きで、ざわつく心と頭を整理した。どういうこと?この半年でそんなに私の歌はだめになったの?ほかの子はそんなに上手くなっていたか?私はもしかして、受からないのか? 

模試とはいえ、この予備校で評価されていないというのは、かなりまずいことであるという感覚が18歳の私にもあった。

その日のレッスンをどうしたか覚えていない。

遅刻して参加したのか、そのまま帰ってしまったのか、あまり記憶に残っていない。


2週間後、予備校の先生に言われた通り、清楚に見える白いコートとグレーのワンピース。そんな格好に普通だったら全く似合わない、襟足を刈り上げショートカットをガチガチに固めた髪型の、不思議ないでたちの私は、最後の受験を迎えた。

そんなに大きな失敗をしたわけではない。

自分なりに、ベストは尽くしたと思う。


でも、私は落ちた。

1次試験で不合格。

結局、かすりもしなかった。


この年には会場の混乱を考慮してか、1次試験の合格発表は電話での対応になっていた。

祖母宅のベッドルームからひとり、専用電話番号にダイヤルし、受験番号を伝える。

「少々お待ちくださいね」と思いのほか優しい声の女性が応対し、少しの間があった後「残念ながら、不合格です」と伝えられた。

あまりにもあっけなかった。


リビングで待っていた母と祖母に

「だめだった」

と伝えた後、私は39℃の熱を出して寝込んだ。

身体中に張りめぐらせていたすべての糸が、ぷつんと切れた感じだった。




この話をいつか書こうと思って、もう16年経ってしまった。

高校卒業後の数年は、まだまだ「宝塚に落ちた」ことを引きずっていて、その話をするのが嫌だったし、「受験資格が20歳までに変更されたらしい!まだチャンスがある!」という夢を何度かみた。

別に何か教訓がある話ではない。

強いて言えば、「宝塚に入らない先の人生は考えられない」と思っていたけれど、宝塚に入っていたら味わえなかった人生を、私は今楽しんでいる。


今更、昔の頑張った話を書くのもどうかなとちょっとだけ思うし、「私はこんなにやったんだよ!」と頑張ったアピールするのは格好悪いかなあとも思う。

それでも、私は死ぬほど頑張った。

200パーセント、やり切ったと言える。

10代という若さゆえの純粋さもあったと思うけれど、あのとき、すべてを投げうってがむしゃらだった日々は、今の自分の土台になっていると思う。



あれだけやれた私だ、このくらい、何のことはない。

18歳の私が、いつも心の中で応援してくれているような気がする。


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なんちゅう表情だ(笑)






















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