無題(小話)


長森美奈は、眼下に拡がる、美しくもケバケバしいネオンの海を見つめながら、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
(綺麗で、けれど中身は空っぽの街……。でも、もうすぐお別れだわ)
 自嘲と言うには、あまりにも寂しげな顔で、笑った。
 今、美奈がいるのは、ビルの屋上だ。
 しかも、墜落防止の柵を乗り越えた先にいる。
 ――そう。美奈は今まさに飛び降り自殺をするために、ここに来たのだ。
 柵を掴んでいる手を離し、少し体を前に投げ出せば、それで美奈の人生は終わり。
 あまりにもあっけない最期に、乾いた笑みしか出てこない。
 けれど、もうこれ以上生きていくのも疲れてしまった。
(……でも、そうね。せめて最期くらい、楽しかった思い出を思い出しながら死にたいわ)
 こんな自分にも、少しくらいは楽しかった思い出があるはずだと、美奈は目を閉じて、記憶の海へと潜っていった。


美奈は、産まれた時は「柳瀬美奈」という名前だった。
 両親は、美奈がお腹に宿った為に結婚した、所謂出来ちゃった婚をしたらしい。
 けれど、双方の両親に結婚を反対され、駆け落ち同然で家を飛び出し、誰も知り合いがいない街で美奈を産んだ。
 最初の数年は、美奈はとても幸せだったと思う。
 まだ若かった両親は、けれど必死に働き、美奈の事も精一杯愛してくれていた。
 けれど、そんな幸せは長く続かなかった。
 物心が付いた頃には、既に両親の仲は冷え切っており、美奈が5歳になる前に離婚してしまった。
 幼い美奈には、何故両親が離婚してしまったのか、その理由まではわからなかった。
 けれど、父と喧嘩した後の母に必ず、
「アンタなんか産むんじゃなかったわ!」
 と怒鳴られていたせいで、ずっと自分の存在が両親の離婚の理由なのだと、信じていた。
 そうして、母に引き取られた美奈だったが、その後も決して幸せと言える日々ではなかった。
 母と二人で暮らしていた時は、ずっと独りだった。
 美奈を養う為に働き始めた母は、いつしか職場で恋人が出来たらしく、家に帰ってくる日が少なくなっていった。
 料理も出来ない美奈は、キッチンを漁って、見つけたインスタントラーメンをそのままかじったりして、何とか飢えを凌いだものだ。
 けれど、次第に周囲の人間に美奈の状況がバレ、最終的には母の両親――祖父母に引き取られる事になった。
 それもそうだろう。
 当時の美奈は掃除はもちろん、洗濯だって出来なかった。
 いや、何度かチャレンジしたのだが、入れる洗剤の量を間違えたり、スイッチを入れ間違ったりして、まともに洗濯が出来なかったのだ。
 いつも汚れた、何日も洗っていないような服を来て保育園に通っていた美奈は、きっとかなり異質だっただろう。
 正直、あの頃の事は、ほとんど覚えていない。
 ただぼんやりと、いつもお腹が空いていた事、真っ暗な部屋の隅で、膝を抱えて帰ってこない母をずっと待っていた記憶があるだけだ。
 祖父母に引き取られた後も、美奈は幸せだと感じた事はなかった。
 祖父母は、表向き美奈に食事を与えなかったり、虐待と言えるような事は何一つしなかったけれど、美奈の顔を見る度にいつもこう言っていた。
『アンタさえいなければ、あの子がおかしくなる事もなかっただろうに』
 どうやら、母は祖父母にとって自慢の娘だったらしい。
 勉強も出来て、器量も良くて、学生時代の母はとてもモテていた、らしい。
 将来は立派な大学を出て、立派な会社に就職して、素敵な男性と結婚するのだと信じていたようだ。
 けれど、祖父母の期待を裏切るように、出来ちゃった婚で駆け落ちした母に、すっかり当時の面影はない。そのことが、祖父母にとっては屈辱だったようだ。
 そう思えば、祖父母の元にいた高校時代まで、楽しかった思い出など、ほとんどない。
 美奈は、家でも、学校でも、独りだったから。
(――あ、でも、一人だけ、私に声を掛けてくれていた子がいたっけ……。確か、名前は良美ちゃんだったかしら……)
 小学校時代、クラスメイトとほとんど話す事のなかった美奈に唯一声を掛けてくれたのが、岡本良美という女の子だった。
 彼女は、陰気な美奈とは違い、明るく朗らかな少女で、美奈以外にも友人は何人もいた。
 それなのに、何故美奈に話し掛けてくれたのか、一度問うてみた時。
『……あたしね、母子家庭なんだ。美奈ちゃん所とは少し違うかもしれないけど、似てるなって思ってて、ずっと話し掛けたいと思ってたんだ。だから、仲良くしよ!』
 そう言って、にこっと微笑んでくれた笑顔は、未だ心の中に残っている。
 彼女とは、彼女が母親の再婚に合わせて引っ越しするまで、ずっと仲良くしていた。新しい父親と母親と三人で新生活を始めるんだと言った彼女に、美奈は手紙を書くねと約束し、それから数年はずっと手紙のやりとりをしていた。
 けれど、学生時代の友人など、会わなくなれば次第に縁遠くなるものだ。
 小学校を卒業し、中学高校と過ごすうちに、彼女の事はすっかり忘れていた。今頃、どうしているのだろうか。せめて、幸せで過ごしてくれていたらと願うだけだ。
(……そういえな、高校時代も優しい人はいたわね……確か、佐々木くん、だったかな)
 岡崎良美の事を思い出すうちに、高校時代のクラスメイトの事も思い出した。
 佐々木、という名前の彼は、愛想がなく、いつも仏頂面で教科書を睨んでいた記憶がある。あまり友人もいなかったようだが、彼はそれを気にする様子もなかった。
 高校時代の美奈は、表面を取り繕う事を覚え、それなりに友人も出来ていた。
 もちろん、深い話をするような友人ではない。非常に薄っぺらい友人関係だったが、当時の美奈にとっては、ようやく普通に友人が出来た事を喜ぶばかりだった。
 けれど、所詮その友人達は、美奈のことを友達などと思っていなかったのだろう。
 最初は普通におしゃべりするだけだったが、次第に他のクラスメイトの悪口を言うようになり、気づけば美奈に気に入らないクラスメイトの荷物を盗んでこいと命令するようになった。
 そんな事をしたくない、とは言えなかった美奈は、言われるがままに嫌々荷物を盗んだり、文房具を壊したりしていた。
(こんな事したくないのに……でも、しないとあの子達に怒られちゃうから……)
 イヤだと思っていても、断れない弱い自分に言い訳をしながら、日々過ごしていた美奈に、あるとき佐々木がぼそりと呟いたのだ。
『お前……最後に苦しむのは自分だぞ。わかってるんだろう?』
 たまたま、他のクラスメイトもいない、放課後の教室で佐々木に言われた一言。
 あの時は、正直何を言われているのかわからなかった。
 最後に私が苦しむ? 何故? と首を傾げて流してしまったのだが。
(……佐々木くんの言葉は正しかったのよね)
 その後、美奈が荷物を盗んでいた事がバレたのだが、その時美奈をそそのかした友人達は「私たちは止めたんですけど、美奈ちゃんが……っ」と言って全ての罪を美奈に被せてしまったのだ。
 もちろん、美奈も反論した。
 自分は彼女達に言われてやっただけだと。けれど、教師達の反応はとりつく島もなかった。
「だって、結局お前がやったんだろう?」
 ――そう言われてしまえば、美奈には反論出来ない。そうだ。友人に言われたとはいえ、最終的に行動を起こしたのは美奈だ。それは事実だった。
 結局、その事件により、美奈は学校を退学する事になり、祖父母にも激怒され、最終的には勘当され、家から追い出されてしまったのだった。
 そこからは、よくある転落人生だ。
 高校中退の美奈に、出来る仕事は限られている。とりあえずはバイトを掛け持ちして食い繋いでいるうちに、気が付けば夜の世界へと足を踏み入れていた。
 最初の頃は戸惑いしかなかったけれど、次第に慣れていき、気が付けば常連が出来、それなりに給料を稼ぐ事が出来るようになっていた。
 今思えば、あの頃はそれなりに幸せだったのかもしれない。店の女の子は基本的に皆ライバルだったけれど、仲の良い子も数人出来た。美奈を贔屓してくれるお客も付いてくれて、少しは自信がついた。
 ――けれど、人生はすぐに激変した。
 店の常連客の一人と恋人になったのだが、美奈の元へ通ってきていた時は羽振りもよく、美奈に色々な贈り物をしてくれた。ヴィトンの財布にグッチのバッグ……当時の美奈には高級過ぎてなかなか使えない物ばかりだったが、とても嬉しかった。
 だから、彼に「付き合って欲しい」と言われた時は嬉しくて、涙交じりに頷いた。
 だが、付き合うようになってから、彼からお金を貸してくれと言われる事が次第に増え、食事に行っても美奈が払うのが当たり前になった頃、ついに決定的な出来事が起こった。
 ――美奈への借金督促状。
 身に覚えのない借金に混乱していると、彼がいきなり土下座をして「悪かった!」と謝罪の言葉を口にしたのだ。
「すまない、美奈! どうしても入り用があって……美奈の名前でお金を借りてしまったんだ。今は、その……少し返済が遅れてしまったけれど、ちゃんと返すから!」
 そう言って頭を下げる彼に、どうしてという思いはあったけれど、美奈にはそれを口にする勇気はなかった。今まで、こんなに優しくしてくれた人はいなかったのだ。だからこそ、責めて彼を失う事は出来なかったのだ。
(――今思えば、あの人は多分それを見越していたんだわ。本当に甘くてどうしようもないわね、私は……)
 結局、美奈は彼が作った借金を返済する事になってしまったのだが、毎月の返済額がかなりの額で、住んでいたマンションから、もっと安い家賃のアパートへ引っ越しせざるを得なくなった。
 その頃には彼とも別れ、美奈は一人寂れたアパートで暮らす事になってしまった。
 そのアパートの大家の女性は、非常に無愛想な人で、美奈が引っ越しの挨拶をしに言った時に、眉を顰めた表情でこう言い放った。
『アンタみたいな若い女性が、なんでこんなアパートに暮らすんだい?』
 美奈以外の住人は数人しかおらず、その住人も日雇いバイトで何とか生活していたり、パチンコに行って暮らしているような人間ばかりだったらしい。そんな中に美奈のような水商売と判る服を着た女性が住むのは、確かに普通ではなかったのだろう。
 けれど、その時の美奈は疲れ果てていた事もあり「すみません……」と謝ることしか出来なかった。意味もなく謝罪をするだけの美奈を、大家の女性はどんな風に見ていたのか、それすらも記憶にない。ただただ、辛くて、しんどくて、顔を上げる事が出来なかった事を覚えている。
 そこまでして必死に返そうとした借金だったのだが、気が付けば金利で倍ほどの額に膨れ上がり、返済するのも大変になっていってしまった。
 水商売をしながら、コンビニのアルバイトでもしようか……そんな事を考えたこともあったけれど、コンビニのバイトごときで返せる額ではなかった。
 ――そうなれば、堕ちる場所は決まっている。
『このままじゃ利子さえ返せないだろう? いい仕事を紹介してやろうか? そこなら利子どころか、借金も返せるぜ』
 取り立ての男にそうそそのかされ、斡旋された仕事は――売春だった。
 堕ちる所まで堕ちたな。そう思いながらも、借金の返済の為だと自分に言い聞かせて、必死で働いた。
 けれど、次第に心が疲弊していく。
 好きでもない男に自分の体を好きなように弄られ、犯される日々は、美奈の心を次第に黒く塗りつぶしていく。
 自分は一体何の為に生きているのか。
 そんな事もわからなくなった美奈は、仕事から帰る時、ふと見上げたこのビルへと上がってきたのだ。


(……嫌だわ。思い返しても、私の人生で楽しかった事なんてほとんどないじゃない。これじゃ、生きてても死んでるようなものだわ。だから、今死んでもいいわよね)
 どうして、こんな人生になってしまったのか。
 どうして、こんな所で、独りで死のうとしているのか。
 自分でも訳がわからなくて、思わず嗤いがこみ上げる。
 けれど、もう生きていくのがしんどくて仕方ないのだ。
( 出来る事なら、最期に楽しい思い出を思い出したかったけれど、しょうがない。むしろ、こんな人生とおさらば出来ると思う方が幸せね)
 もう、迷うことはない。
 柵を掴んでいる手を離し、少し体を前に傾けるだけで、この辛い日々とおさらば出来るのだから。
(出来れば、次に生まれてくる時は、優しい両親の元に生まれてきたいな……)
 そんな事を願いながら、美奈はゆっくりと柵を掴んでいた手を離そうとした。


――――ダメだよ!!!


「――っ!?」
 その瞬間、まるで美奈の耳元で誰かが叫んだような声が聞こえ、慌てて柵を握り直す。
 周囲に誰もいないはずだ。けれど、確かに声が聞こえた。
(――今の声は、誰? 良美ちゃんの声のようにも聞こえたし、佐々木くんの声のようにも聞こえたけれど……)
 空耳にしては、やけにはっきり聞こえたけれど、誰の声かわからない。
 けれど、その所為で我に返った美奈は、今、自分のいる場所の恐ろしさに気づいてしまい、美奈は慌てて柵の内側へと戻る。
 先ほどまでは、綺麗な景色だと思うだけだった。けれど、ある意味目が覚めてしまったのか、眼下に広がる景色は、今の美奈には恐怖しか感じさせなくなっていた。
「……こ、怖かった……っ」
 コンクリートの床に座り込んで、ぽろぽろと涙を流す。
 恐怖の涙か、死ねなかった自分への涙か。自分でも理由のかわらない涙が次から次へとこぼれ落ちる。
 正直、死ぬ事さえ出来ない自分が、情けなかった。
 飛び降りて、死んでしまえば楽になると思っていたのに、それすら出来ない自分は、何て勇気がないのだろうか。
(――こんな私は、やっぱりダメな人間だわ……)
 情けなくて、本当ならこのまま死んでしまいたいくらいだ。
 けれど、もうここから飛び降りる事は出来ないだろう。何故なら、美奈は恐怖を思い出してしまったからだ。
 死ぬ事が怖いと……思ってしまった今は、もう無理だった。

 結局、美奈はとぼとぼとアパートの近くまで帰ってきた。
 情けないが、もう少しだけ頑張るしかない。――はっきり言って、この先なんて奈落の底まで堕ちるしかないだろうが、死ぬ事が怖いと思ってしまった今は、そちらの方がましなような気さえしていた。
 重い足取りでアパートの前まで戻ってくると、何故か大家の女性がアパートの前をうろうろと歩いていた。
「……大家さん?」
「っ長森さん!? ……ああ、良かった……帰って来たんだね……」
「……え……」
 無愛想な大家は、美奈を見てほっとしたように小さく微笑んでくれた。
 今まで、顔を合わせても義務的な挨拶しかしてこなかったので、そんな反応をされると思わなくて、驚きに目を丸くする。
 そんな美奈を見て、自分の様子が普段と違う事に気付いたのだろう。大家の女性は、どこかバツの悪そうな顔で苦笑いを浮かべた。
「いや……最近のあんたの様子が気になっててね。ちゃんと帰ってくるかどうか心配だったんだよ」
 だから、無事に帰ってきてくれて良かった。
 そう言ってぎこちない笑みを浮かべた大家の言葉に、美奈は鼻の奥にツンとした痛みを覚えた。
 ――ずっと、独りだと思っていた。
 誰も美奈の事なんて気にしていないし、いなくなってもどうでもいいと思われていると、ずっと思っていた。
 だけれど、違った。こんな美奈を、心配してくれている人は、ちゃんといたのだ。
 こんな、生きている意味さえ見つけられない美奈の事を――……
「……っ大家さん……っ」
 胸からせり上がってくる嗚咽に耐えられず、思わず大家の胸に縋り付いて泣いた。
 小さな子供のように、わぁわぁと声を上げながら。
 本来なら、迷惑だと言われても仕方がない事だ。けれど、大家は美奈を拒絶するどころか、優しく頭や背中を撫でて慰めてくれた。
「……ねぇ、長森さん。あたしじゃ、大した力にはなれないかもしれないけれど、あんたが抱えている悩みを話してごらん? 無駄に長生きはしてないからね。何か解決策が出るかもしれないよ?」
 美奈が重荷に感じないように、 わざと軽い口調で言ってくれている大家の言葉に、美奈は「ありがとうございます」と嗚咽混じりにお礼を言う。
「すっすみません……っ」
「いいから。今は思う存分泣きな。……きっと、たくさん頑張ってきたんだろうね、あんたは。少しくらい泣いたって気にしなくていいよ」
「……っありがとう、ございます……っ」
 ぽんぽんと、慣れない手付きで頭を撫でられ、もう一度美奈はお礼を口にした。
 もちろん、美奈の抱える問題が解決した訳ではない。けれど、美奈を心配してくれる大家の優しさが、とても嬉しかった。
 もう、誰も美奈の事など、気にしていないと思っていた。誰にも、大事にされる価値などないのだと、ずっと思っていた。
 ――けれど、今。
 こうして、美奈を心配してくれている人がいる。思い返せば、小学校の時の良美も、高校時代の佐々木も、美奈の事を心配してくれていたんだと、ようやく気付く。
 ずっと、人の優しさというものは、教科書にあるような、わかりやすいものだと思っていた。けれど、優しさはそれだけではなかったのだ。美奈のことを心配して、敢えて忠告するという優しさも、確かにあったのだ。
「ほら、泣き止んだらお茶でも飲んで。そしたら話を聞かせてちょうだい」
 大家の言葉に、コクリと頷いて、手を引かれるままにアパートのすぐ側にある大家の自宅へと一緒に向かう。
 大家の、皺の刻まれた、温かい手の温もりを感じながら、美奈は初めて死ななくて良かったと思った。


冒頭だけは遙か昔に思いついていたのですが、突然思い立って書き上げました。普段、自分の書くものとは全く違いますが、これも一種の吐き出しだと思って、供養を兼ねてUPします。
タイトルは全く浮かばなかったので「無題」です(笑)
書きたかったことは、優しさ、かなと思います。
色々大変な事が多い今だからこそ、優しさを大事にしたいと思います。
そして、登場人物の名前と同姓同名の方がいらっしゃったらすみません!
この話に出てくる人物は、実在する方と全く関係ありませんので、ご了承下さいませ。

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