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自己紹介

久野夏輝と申します。
今年25歳になりました。
現在は愛知県名古屋市在住です。
今はUber eats兼didi food配達員をしております。
要するにフリーランスです。
今回は今日に至るまでの僕の人生を簡単に紹介していきます。

【目次】
①幼少期
②小学生時代
③中学生時代
④高校生時代
⑤専門学生時代
⑥社会人 今に至るまで
⑦最後に

①幼少期

僕は、3歳で幼稚園に入園した。両親が共働きだったこともあり、幼稚園の送り迎えは祖母がしてくれていた。祖母から離れるのが嫌で4.5歳位までは幼稚園バスの見送りの時によく泣いていて、無理矢理幼稚園に行かされたいた。幼稚園での生活は、めちゃくちゃ陰キャでなかなか友達と話せず教室の端っこにいたことを覚えている。ただ、幼少期は運動神経が良かった為、相撲大会は必ず優勝、マラソン大会も2位や3位と同年代の中でもトップクラスに出来る方だった。しかし、私生活での争い事は嫌いだったので皆が普段使うおもちゃなどは使わず余った物で遊ぶようにしていた。
幼稚園最上級生(6歳)の時の運動会で、僕は家族のことを見失ってしまい、運動会の楽しい気分ではなくなってしまった。この時パニックになり2キロは離れているであろう自宅まで走って帰ってしまった。自宅に祖父がいて驚いた祖父が自転車で運動会をしていた小学校まで送ってくれた。親や先生にはめちゃくちゃ心配されて、逆に家までよく帰れたねと言われた。この時から道や地名を覚えることは得意で今の配達にも生かされていると思う。
6歳の時の担任の先生はめちゃくちゃ厳しかった。正直今の時代だったら完全にアウトな先生だった。僕は、音楽発表会で今までやったことのなかった木琴という楽器を担当することになった。先生からは『やったことあるから大丈夫だよね』と言われた。僕の心の中は『やったことないから大丈夫じゃない』って気持ちだった。でも先生が怖くて言えなかった。案の定全く出来なかった。時効だから話すが、叩かれたり怒鳴られたりもした。ずっと早く音楽発表会終わってほしいと思っていた。なんとか最後までやりきることが出来たがこの時から怒られること、人から指図されることが大嫌いになった。そしてこの1ヶ月後に幼稚園を卒園した。今思うと幼稚園の頃には絶対戻りたくない。

②小学生時代

小学校に入学して、親の影響もあり野球を始めた。野球は好きだったけど、土日は野球の練習で遊ぶことも出来ないし、地元の祭りにも参加出来ないしとても嫌だった。でも、親に辞めたいって言ったら怒られるから言えなかった。大人になってからもそうだけど、この頃から『怒られたらどうしよう』という気持ちが強くて嫌なことを嫌と言えないようになっていた。
しかし、野球をやっていて良いこともあった。クラスの同級生と比べてもドンドン足が速くなっていった。運動会では、誰がいてもリレーメンバーに選ばれて走っていた。目立ちたがり屋だった自分はとても嬉しかった。中でも印象に残っていることは、4年生で学校の陸上部に入り、いきなり学校全体のリレーメンバーに選ばれたことだ。ただ選ばれたことで満足して成長がなかったと思う。
小学生の頃は学校でもかなり目立つ存在になり、よく殴り合いの喧嘩をしていた。大体友達にちょっと馬鹿にされたことを言われて、僕が我慢出来ず殴りかかっているということが多かった。この頃の僕はとても真面目で人の言うことを聞く方だったけど、馬鹿にされると絶対喧嘩してた思い出がある。よく言えば爆発力がある。そんな感じだろうか。ただこの爆発力が今の筋トレに繋がったことは間違いないと言える。
僕は小学校6年生になった。相変わらず野球もしていたし、喧嘩もしていた。6年生は人生が変わった1回目の転機かもしれない。卒業と同時に野球を辞めたことだ。僕にとって小学校6年間野球をして6年生が1番きつかった。コーチや監督に毎週のように怒られ、土日を迎えることがとても憂鬱だった。父からも試合でミスがあると帰りの車内で怒られていた。だから、『毎週雨で中止になってくれ』って心の底から思っていた。今となれば、自分の為に言ってくれていた、監督、コーチ、父の言葉も分かるが、その当時は好きな野球が嫌いになっていた。強いチームだったから県大会のベスト8までいって僕もスタメンで活躍していたが、それよりも怒られて萎縮してしまい、自分らしいプレーが出来ないことが1番辛かった。でも、こんな事を誰かに言ったらまた怒られるんじゃないかと思ってしまい誰にも打ち明けることが出来なかった。次第にストレスが限界に来ていた。
そんなこともあり、口下手だった僕は相手に上手く物事を伝えることが出来ず学校でも同級生と衝突してストレスを溜めていた。学校の3階から飛び降りて自殺しようとしたこともあった。
6年生の時の担任の先生が嫌いで、その時の先生が太っていたことから自分はこうなりたくないと思い給食も食べなくなり、次第に拒食症になった。
この事は、中学に入ってから1年間続いた。めちゃくちゃ苦しかった。
小学生は6年生の時めちゃくちゃ苦しくて、自分を出せない日々が続いていたと感じている。

③中学生時代

小学生の頃から続いていた拒食症が中学生になっても治らなかった。余りにも食べなくなった僕を親は病院に連れて行った。即入院になった。入院しても気持ち的にはこのまま食べれなくてもいいと思っていた。頑固な性格が災いしていたなと思う。1度決めたら良い事も悪い事も貫いてしまうからこの時は良くない方に転んでいた。だから退院しても食べたり食べなかったり、変にカロリーなんかも気にしていた。拒食症になって半年位経った頃身体に変化があった。成長期なはずなのに身長が全く伸びない、髪の毛が抜ける。この頃の身体の状態は最悪だったと思う。このままだとやばい、そう思った僕は『なんとか食べよう』そう決意した。でもめちゃくちゃ太るんじゃないか怖くて、最初は病気になる前のように食べられなかった。でも病院の先生や自分の気持ちで変化でようやく元のように食べられるようになった。その頃には中学2年生になっていた。病気が良くなった僕は、中学の部活は嫌だけど運動はしたいと思った。昔から遠くに行くのが好きだった僕は、自転車で遠くに行ってみたいと思った。すぐに親に言ってロードバイクを買ってもらった。始めて1ヶ月で往復100キロの所まで走りに行った。苦しかったけど、走りきった後は達成感があった。その事を自転車を買った店の店長に報告したら、クラブチームの練習に参加させてくれた。全くついていくことが出来なかったけど大人の人と走ることが楽しかった。またそこで仲良くなった人と練習することになった。しかし、その練習で僕は大怪我をしてしまう。初めて走ったコースの下り坂で転倒し、大腿骨を骨折してしまう。全治1年だった。半年松葉杖を付いて自転車を乗ることも出来なかった。リハビリも本当に辛かった。この頃また大きなストレスを抱えてしまい心の病にかかってしまう。強迫症という病気だった。いわゆる鬱病などと近い病気だ。学校でありもしないことを言われているんじゃないか、不安になって学校も休みがちになった。実際同級生と口論になり、学校のトイレから4時間位出てこなかったこともある。こんな状況だったので授業もまともに受けられることも出来ず、成績には5段階評価の1と2ばかりが並んでいた。でも、この時は中学2年生で全くと言っていいほど危機感がなかった。
中学3年生になり、怪我も治り自転車も乗れることが出来るようになったことで強迫症も徐々に良くなっていった。次第に進路相談も多くなり、高校では自転車競技をやりたいと思うようになっていった。でも部活だと、自分の自由には出来ないから、練習に参加させてもらっているクラブチームで実業団としての登録をしたいと思うようになった。2年生の時は高校に進学出来ない程の成績だったので高校に入って好きなことをやれるように勉強も少し頑張ろうと思った。1学期の時点で志望校には入れる位の成績になった。2学期になり、親に『自転車競技部のある高校に行きなさい』と言われた。理由としては、親は実業団だとチームの方に迷惑がかかり私達だと遠征などに付いて行けないからという事だった。僕は、最初は嫌だったけど自転車部のある高校に学校見学に行った。高校の先生に部室に案内され、部活動の詳細を先輩方に聞くことが出来た。先輩方は自由な感じの人達で部活嫌いな僕でも、『面白そうな人達だな』と思い、その高校に入学することに決めた。学校の成績は悪くても入れる高校だったので入試で簡単に合格することが出来た。
中学生はずっと苦しかった思い出があるけど、自転車競技と出会えて自分の好きなことを自由に出来る環境を見つけることが出来たので充実していたのかなと思う。

④高校時代

高校1年生の最初はクラスに馴染めず陰キャを決め込んでいた。その当時の僕は清潔感がなく、ニキビがたくさん出来ていたり、鼻毛が出ていたりで同級生からめちゃくちゃイジられていた。クラスには、友達と呼べる存在もなかなかおらず、弁当は部活動の部室で食べていた。部活だけの為に学校に行っていたような感じだった。ただ自転車部は練習も自由だし、部活のメンバーは僕に暖かく接してくれて、良い意味で弄ってくれて皆が笑ってくれた。居場所があったことにとても感謝していた。1年生の時市民レースのチーム戦(4時間耐久レース)で先輩3人から『久野も一緒に走れよ』と誘って頂いた。僕もレースが好きだったので、一緒に走ることになった。僕はレースの1番手を任された。レース中は雨が降っていて、ペースが上がらず他チームは牽制していた為、思いきって僕がレースを動かした。全力で30人位いる集団から逃げた。1周半逃げてトップで2番手の先輩にバトンを渡した。その後は4〜5位くらいを彷徨い最終の先輩にバトンが渡った。残り10分の所で先輩が3位に浮上し、そのままゴールした。4人で掴んだ表彰台だった。めちゃくちゃ嬉しかった。先輩方からは『お前が仕掛けたから俺たちもやらなきゃってなった』と言ってもらえた。僕はこの人達とレースに出れて本当に良かったなと思えた。
ただ、高校生の大会では思った成績が残せずいつも後悔ばかりしていた。1年生の春の大会では、中学からやってるから勝てるだろうと高を括っていた。結果、極度の緊張と水分の取り過ぎでレース中に脇腹を肉離れしてしまい途中棄権。秋も同じように腹痛になり、下から2.3番目位と散々なものだった。1年生の頃はかなり練習したいたにも関わらず結果を出せなかった。そして、秋の大会が終わり完全に心が折れてしまった僕は、練習をしなくなった。部室で先輩達とゲームをする日々が続いた。
話は変わるが、この頃の僕はめちゃくちゃ彼女がほしいと飢えていた。ただクラスでは、陰キャだから女の子と仲良く出来ないし、部活の女子とは仲が悪かったので、SNSを使って彼女を作ることに奔走していた。今や懐かしいmixiというアプリだ。ただ、ネット上で仲良くなっても実際にはなかなか会うことも出来なかった。というか、女性と話すことさえ出来ていなかった。でもこのままだと一生彼女出来ないなと思い、仲良くなった子と電話をするようになった。そしたら次第に話せるようになっていった。そして、高校1年の2月に初めて彼女が出来た。ただ、初めて会った時僕の服装がダサ過ぎる+デートが全く楽しくないということで初デートで彼女に号泣されてしまった。初デートで『次変わってなかったらすぐ別れるからね』と言われてしまった。その後服を買うのにお金がなかったからアルバイトを始めた。ネットでデートが上手くいく方法も調べた。迎えた2回目のデート。めちゃくちゃ緊張して手汗かきまくったけど、『1回目より成長したね』と言ってもらえた。初めて女性の為に頑張るということをした。その後4ヶ月で別れてしまうが、女性に好かれる為に頑張ることで自分自身をより男らしく出来ると感じられる良い出来事になった。
高校2年生になり、クラスでも友達が出来るようなり徐々に話せる人がクラスでも増えてきていた。部活は冬の間サボりすぎて完全に練習不足になっていた。ただ春の大会は、サボって結果出ないからそれなりにやろうと思ってやったら意外と走れた。10位に入ることが出来た。1年生時の練習の貯金があったなと感じた。その後、ステージレースの全国大会にも選ばれることが出来た。ここでまた競技に本気になり、ガッツリ練習を始めた。しかし全国大会では歯が立たず途中棄権。また全国来たいなと思った。
秋の大会では、優勝を狙っていた。練習もかなりした。行ける自信もあった。しかし、結果はまさかの途中棄権。緊張で身体が動かなかった。でも、練習がまだ足りなかったのかなとか、練習で自分への甘さがあったのかなとかも思った。悔しかったし、今までの練習無駄にしたなとかも思っていた。でも、大会が終わって練習をしなかった。また1年生時の同じ失敗をしてしまっていた。春になるまで全くと言っていい程やっていなかった。冬に練習しなかった事は今でもめちゃくちゃ後悔している。
そして、3年生。前述の通り全く練習していない僕は4月位に危機感を覚え練習を始めた。ただ時既に遅し。大会を迎える時点でもう間に合わない。分かっていた。後輩にも勝てない、自分の甘さを痛感した。そして、大会前日僕は大会の準備に遅刻をし、そこで友人に逆ギレしてしまいそのまま帰ってしまった。大会にも参加しないつもりで次の日も朝起きなかった。コーチから鬼電があり迎えに来られた。渋々行くとまた会場で友人と喧嘩をしてしまい、会場で居なくなるということをしてしまう。原因は分かっていた。自分の力がなくて、大会に出たら勝負にならない。完全な逃げだった。そして、いつも相談を聞いてくれてアドバイスをくれた友人への裏切り行為。この時の自分は自分勝手極まりなかったと思っている。そして今でも話してくれる友人達には感謝しかない。
そして部活も終わり進路を決める時期になった。僕は当時やりたいこともなく、漠然と『先輩が消防士目指してるから俺も目指そう』位の感じで、大原法律公務員専門学校への進学を決める。

⑤専門学生時代

入学して2ヶ月。すぐに壁にぶち当たる。模試で問題が全く分からず、学校を辞めたいと思うようになった。その時は学校の先生に『まだ2ヶ月なんだから焦らなくていい』と言われなんとか辞めなかった。そしてまた1ヶ月後、またしても辞めよう思う事が起こる。それは、学校の合宿でグループに分かれて出し物をやると決まったことだ。僕のグループは、バンドみたいな出し物をやるということになった。その当時の僕は、『なんでこんなくだらないことやらなきぁいけないんだ』とかなり苛立っていた。それに加えグループで意見がまとまらず、僕は1度ブチ切れて帰ってしまった。この時も、グループの人のことは考えず自分勝手になってしまった。絶対にやりたくなかった僕は、先生に『学校辞めます』と伝える。先生からは、『久野が悪いのに何故謝らずに辞めるのか、ここで辞めたら一生このままだぞ』と言われ、その時は納得がいっていないながらも、グループに謝罪し出し物にも協力的に参加するようになった。この時の僕の頭にあったのは、高校時代の部活で仲間を裏切ってしまったことがあった。2度としたくないと思い、僕は仲間に謝罪し活動に参加することが出来た。
その後時は流れ、徐々に模試で点数が取れるようになった。1年後半時は40人中10位くらいにはなっていた。
2年生では、毎日の模試に嫌気が差し模試中に寝ることをしてしまう。そんなことをしていたらあっという間に最下位になってしまった。それでも秋の試験時期にはなんとか取り返し、試験を迎えた。1次の筆記試験で、国税局と刑務官から合格を貰えた。そのまま2次の面接でも両方合格し、見事採用されることになった。採用された時は、刑務官になろうと思っていたが、母親に反対されて結局、国税局を選んだ。ただどっちにしろ、自分自身採用されたことに満足していてどっちでも良かったって言うのが本音だった。そして、採用を貰ってからは遊んだ。髪を染めたり、お酒飲んで暴れ回ったり、それまでやれなかったことをした。試験終わってからの方が人生にとってはいい経験だったなって思っている。

⑥社会人 今に至るまで

僕の社会人人生は東京国税局からスタートした。社会人になる前もなった後も、『久野が税務署なの』って皆に言われる程想像が付かないらしい。
って言うのも自分でもそう感じていた。採用貰った段階で頑張ろうという気はサラサラ無くなっており、安定した社会人生活を謳歌してやろうと思っていた程だった。しかし現実は違った。国税局は1年研修で研修施設に入るのだが、そこが全寮制で生活が制限される。しかも上司からは常に監視され、粗探しをされ怒られる。最初の2週間は地獄だった。ただ2週間を過ぎて同期とも仲良くなり徐々に生活に慣れてきた。1ヶ月くらいした時にグループの同期に『一緒に筋トレしようぜ』と無理矢理誘われる。今までの自分なら絶対にやらなかったけど、『同期ともっと仲良くなりたい』という気持ちから筋トレを始める。僕の筋トレ人生のスタートである。その時はやり方を訳も分からずアームカールとサイドレイズをひたすらやっていた。そして、同期で彼女がほしいと思ったのもこの頃である。しかし、僕は好きな人にとって良い人で終わってしまう。今思えば、良い人とモテる人の違いは痛い程分かる。結局同期では彼女が出来なかった。
そして、社会人1年目の7月。グループの上司が異動することになった。社会人になって1回目の転機である。異動する上司とは仲が良く、部下想いの優しい上司だと尊敬していた。しかし、新しい上司はめちゃくちゃ厳しく、僕は7月終わりにひたすら怒られた。きっかけは業務日誌の内容が酷いからというものだった。本来なら1日で終わるものを1週間同じ日の日誌をやり直し書かされた。毎日朝怒られた。仲間に聞きながらやったり、自分で調べたりして書いてもひたすらやり直しになった。僕は納得いかなかった。しっかり書けた時でも何も言われない。僕の中で何かが切れていった。そして週末を迎え、日曜日の夜になった。身体が痙攣し、泣き叫んだ。『次の日を迎えるのが怖かった、また怒られる』そんなことをずっと考えてしまっていた。上司には『現場に出て即戦力になってもらう為に言ってるんだ』と辞める間際まで言われた。最後まで怒られた。僕はこの事は一生忘れないし、僕のことを考えて言ってくれていたとは思うけど、今のでもこの上司のことは反面教師にして人生を歩んでいる。
退職後、僕は職がなかったのでアルバイトをすることにした。ジムに通いたかったがお金がなかったので、『ジムで働こう』と軽い気持ちで親が通っているスポーツジムに応募した。そしたら採用してくれた。しかし、初日時間を間違えていきなり遅刻してしまう。いきなり店長に怒られる所から始まった。国税局を退職して気が緩んでいたことが原因だった。しかしここで気が引き締まった。
入社していきなり『1年間で体重を10キロ増量すること』を店長に言われる。始めた時は『無理やろうな』と思ってやっていた。しかし、やっていると楽しくて、前の仕事の上司を見返したいという気持ちで日が付いてトレーニングと食事を徹底的にやりまくった。トレーニングは基本週6、食事は朝からカレーライスを食べていた。毎日胃もたれと疲れが半端じゃなかった。そして1年後身体は劇的に変わっていた。体重は約15キロ増しかも筋肉量だけで増えていた。とても自信に繋がった。会員様から、お褒めの言葉も頂くことも増えて、正社員にもなった。そして、自分に対して好意をもってくれる女性が出来た。人生で初めてだった。とても嬉しかった僕は、そのままの勢いでその女性と付き合った。しかし1ヶ月で別れた。理由は簡単だ。『相手から好きと言われる経験がなく、自分も嬉しく何も考えず付き合ってしまったからだ』。ただ女性から好かれるという経験を初めて出来た。身体が変わり自信が付いたから、その経験も出来たのだと改めて筋トレやっていて良かったと感じた。仕事はというと、僕はスタジオレッスン(ダンスに近いもの)をやるということになり研修を受けることになった。初めてなので、振り付けも覚えられないし、音も取れないので大苦戦していた。この時は仕事を辞めたいとも少し思った。しかし、先輩方が皆協力して僕にアドバイスをくれて試験に合格することができた。そしてスタジオレッスンも始まっていった。
それと同時期に好きな人が出来た。今だから言えるけどそれはジムの会員様だった。何故好きになったかは控えさせてもらうが、その人の事しか考えられなくなった。そしてその人と距離を縮めたくて少しずつ話すようにしていた。話し始めて1ヶ月が経った頃、連絡先を聞いた。教えてくれた。嬉しくて舞い上がっていた。次の日には電話して、デートの約束を取り付けた。なんとしてでもデートを成功させたい僕は女友達に、アドバイスを貰った。僕は、地元のレストランを知らなかったので、食べログで評価の高かったレストランに1人で下見に行き、予約した。この時デートの時のお金も先払いしていた。そして当日。緊張してガチガチだった。上手く話さず、楽しませてあげられなかったと思う。次回のデートも相手に予定があると言われ、出来なかった。しかし諦めず、電話をして年末に会う事になった。クリスマスが近かったこともあり、クリスマスプレゼントに『ディズニーランドのペアチケットとぬいぐるみ』を購入した。今考えれば完全に逝っちゃってるなと思う。そして当日。焼肉デートをした。前回よりも楽しくなったかなと思った。プレゼントも喜んでくれた。『次回は私がお金出すよ』と次回の予定も立てることに成功した。この時僕は、『次回告白しよう』と決めた。2019年1月2日法多山という所に初詣に行った。夜になり夜景の見れる所で告白した。結果は、『まだよく分からないからまだ待って』だった。事実上の振られ宣告だった。帰りの車内で色々話したけど、何も話したか覚えてないくらいショックだった。でも、それでも諦められなかった。また電話して、1ヶ月後に会う事になった。長島のアウトレットで買い物をする事になった。そして、当日を迎えた。バレンタインが近かったこともあって、出発する車内で相手がチョコレートをくれた。『義理チョコだからね』と言われて。そのまま買い物に出掛けて、帰ってきた。帰ってきた時、相手から『後輩としてしか見れないから付き合うのはごめんね』と言われた。終わったと思った。泣きながら運転して家に帰った。そして、風呂も入らず布団に包まって寝た。ショックからその週に風邪でダウンし3.4日寝込んでいた。僕が人生で1番ショックなことである。今でもその人の事が好きだと思っている。ただ訳あって、連絡が取れない。もし可能性があるのならば、また会いたいし、付き合いたいその先もってまだ本気で思ってる。ただ今の自分にはまだ足りない経験もあるって分かっている。
話は戻るが、スタジオレッスンを始めて最初は失敗するし、毎日泣きそうになりながらやってた。でもレッスンに参加してくれる人には、感謝していたしこの人達の為にも頑張りたいと思っていた。ただ半年経っても上手くならない自分に嫌気が刺していた。そして退職した。
ジムを退職してからも、工場、高速道路のパトロールと経験した。しかしながらいずれも1年以内に退職した。
そして、今年の4月。実家を出て名古屋に行くことを決意した。パーソナルトレーナーになる為だ。最初は5月採用だったが、コロナの影響で7月になり、トレーニングしかすることがなくなった。時間があり過ぎるとトレーニングのモチベーションは下がるもので、名古屋に来てトレーニングマンネリ化していった。そんな自分に嫌気が差して、ジムを変えることにした。それまではゴールドジムに通っていたのだが、新しく『GOAL-B』というジムに通うことを決めた。インスタグラムでマンティ福原さんというめちゃくちゃデカいボディビルダーがいるから、ここのジムに行けば刺激あるだろうなと思い行ってみる事にした。最初は普通のジムだなって印象だったけど、スタッフと会員の距離が近くて、尚且つ会員同士仲良いという最高の環境である事に気が付いた。そして7月、入社研修で東京に行った。正直この研修も辛かった。試験にも落ちるし、寮で寮長には怒られるし、僕の人生は否定されるしで自分に自信が無くなっていくのが分かった。研修が終わり名古屋に戻り、配属になった。配属後も自信をなくしていた為仕事に対して意欲が湧かず、楽しくしているというよりも『やらなきゃいけない』嫌々仕事をしているような感覚になっていた。人生今のままではいけないなと感じていて、コーチングを8月から受ける事にした。コーチングを受けた僕は、すぐに仕事を辞める事を決意。そして、やりたいことを見つける為今は様々な挑戦をしている。挑戦については今後の毎日のブログに書いていこうと思う。

⑦最後に


少なからず読んでくれた方、本当にありがとうございます。僕は飽き性で我慢強くもないし、すぐに諦めてしまうような人間です。しかし、病気を乗り越えて来たり、身体を劇的に変えてきたりしてきました。僕はこの経験を生かし、心の病を抱えている人だったり、言いにくい悩みを抱えている人の受け皿になり、その人達の人生を変えていく仕事をしていきます。もし、そんな人がいれば僕にご相談下さい。関わりがある人には僕からもガンガン話しかけます。こんな自分ですが今後とも宜しくお願いします。

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