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手作りお菓子の記憶

先日、母の33回忌法要があった。
お寺のお坊さんから「33回忌の法要をお務めになる人は多くありません。それだけみなさんが故人への思いを深くされ、徳をお積みになっているということです」とのお言葉を頂戴した。

母の法要はこれが最後になるだろう。
そこで母という人、また母を失った子供の心模様について記しておきたい。

なお、こうした記事は「スキ」やコメントを付けづらいと思いますが(私も躊躇するタイプ)母は非常に明るい人だったので遠慮は無用です。
そのほうが母も喜ぶと思うので^^



お菓子作りの名手

母のことを思い出す時、その姿はいつもお菓子を作っている最中だ。
記憶とセットで必ず甘い香りが漂ってくる。

幼少からアレルギーを持っていた私に、母は添加物の入ったスナック菓子や甘いジュースを口にさせなかった。
代わりに毎日のおやつを手作りし、出来立てを食べさせてくれたのだ。

スワン・シュークリーム。
エクレア。
アップルパイ。

子供ながらにもお店に出せるレベルのお菓子を食べさせてもらっているという自覚があった。
おかげで舌が肥え、チェーン店やスーパーの安いケーキを口にするだけで吐き出すような子供になってしまったのだが。

誕生日には必ずデコレーションケーキを作ってくれた。
ロウソクの炎の向こうに見える母の笑顔が本当に嬉しそうだったのを今でも鮮明に覚えている。



愛された娘

母は私を溺愛していた。
妹の出産のためにひとり病院へ行き、無事産んだ後に「早く家に帰りたい。きっと凛が泣いてる」と駄々をこねて周囲を困惑させたほどだ。

これは祖母から聞いた話だが、母は妹の世話に関して明らかに手を抜いていたそうで。
いつも私が優先で、妹は二の次。
よく妹がグレなかったものだと感心する。

母は私に大量の本を買い与え、とにかく本をたくさん読むことを推奨した。
ピアノや習字、スイミングなどの習い事もしていたが、最優先項目が読書だったのだ。

今振り返ってみると、母は私に「ひとりで生きていける術」を身に着けさせたかったのかもしれない。
自分で言うのも何だが私は幼少期から人目を引く子供だったので、母は「男に頼って生きていく子になるのでは」と危惧していたフシがある。

できるだけ多くの知識を吸収させ、男に頼らない女性になって欲しい。
もしかしたらそうした思いがあったのでは、と想像する。
母の願いも虚しく男に頼って生きる人生になってしまったので、ちょっと申し訳ないが。

そんな明るくエネルギッシュな母が病に倒れるとは、想像もしていなかった。



「かわいそう」を受け止める

どのような経緯だったのかは知らないが、母は悪性の腫瘍が見つかり入院することになった。
当時30代。
進行も早かったようで、入院から2年で母はあっけなく逝った。

「まだこんなに小さいのにかわいそうにねぇ」

小学校低学年だった私は周囲の大人からよくそんな風に言われたが、心の内は残酷なほど冷静だった。
長引く入院生活で母の不在に慣れてしまっていたことも大きい。
泣きじゃくった覚えもないし、寂しさで眠れないといったこともなかった。

母が死んで真っ先に私が思ったことは「どうすれば上手く生きていけるか」
「片親だから」とバカにされたくない。
「母親がいないからこんなことも知らない」と思われたくない。

最初にしたことは図書館で「マナー教則本」を借りることだった。
挨拶の仕方・テーブルマナー・冠婚葬祭の振る舞い。
母の読書習慣のおかげで漢字はほとんど読めた。

そして周囲の「かわいそう」も上手く利用する。
大量のプレゼント。
身に余るお小遣い。
それらをしおらしく受け取り、したたかに生きることに決めたのだ。



母の想いは生きている

想像でしかないが、きっと母は死の間際、私に「強く生きて幸せになってほしい」と願っていたはずだ。
だから私は同情だろうと憐れみだろうと、使えるものは何でも使って生きてきた。

母にもらった容姿を存分に活かしてきたし、打ちのめされる出来事に遭った時も、泥水すすってでも生きてやるという気合いでやってこれたのだ。

多分、母が私に思い描いた生き方ではない。
でも「母の不在」によって私は知恵を働かせ、自分の幸せを最優先にしてきた。

だからお母さん。
心配しないでください。
私はいま幸せです。
時々転んだりもするけれど、すぐ立ち上がります。
もうお母さんが死んだ時の年齢も越してしまったけど。
私の幸せがお母さんの幸せだということを知っているので。
これからも自分の幸せに全力投球して生きます。

不思議なもので、私もお菓子作りが好きだ。
オーブンから漂ってくる甘い匂いを嗅ぐ度、母のことを思い出す。

読んで頂き、ありがとうございました。


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