「十年先まで書いて早く証明したい」若い私はそうこいねがって、

「若いね」と言われ続けてきた。

 比較的知的に早熟であったのと、元来の気質と、もろもろの状況と、いろいろと思い当たる要因はあった。
 じっさいにほんとうに若かったこともあるのだろう。現在二十五歳なので、いまよりもっと若かったということは、たしかにそれは世間的一般的に充分若いと表現しうる年代であった。

 言われはじめたのは、中学生あたりからだった。小学校までは、その表現は、「若い」ではなく「子ども」に置き換わっていたから。
 中学から二十代前半期あたりまでいったいなんど言われたことやら……。

 私はずっとこの言葉を言われて、どう対処していいものか困っていった。
 なぜなら、その言葉は、「論理的に反論が不可能」であるからである。それである以上、日常的あるいは感情的なレベルで反応を返すしかなくて、いまはまあともかく、それはもともとの私のたいそう苦手なことであった。

「若いね」問題というのはかなり多面的に踏み込めることだと思っているので、だからこのエッセイはその一面をほんのすこし表面なぞっていくことに、過ぎないのだと思う。
 けれどもいまの実感をしるして公開おくことは、「若いね」問題における、ひとつの資料として有効であるかと判断するのだ。

 私が最初に「若いね」と頻繁に言われるようになった事柄は、「小説を書いてること」である。

 中学一年生。
 当時から、自分のやっていることなどあまり周囲に見せるような人間でもなかったが、個人サイトを持って親しい友人たちには小説を見せていたので、それがきっかけで教師たちに知られるところとなったことがある。
 おとなたちはうんうんとうなずき、微笑ましい顔をしていた。

「そうかあ、小説かあ。うんうん、若いころってそういうものに、ハマるよな。
 おとなになったらそういうのはできなくなるから、いまのうちに書いておきなさい」

 違う、そういうんじゃないんです、という言葉をぐっと飲みこんだ私の表情の意味を、彼らは悟っていたのだろう。

「小説家になれる人間なんて、ほんのひと握りなんだから。
 下手な夢を見ないで、現実を考えて、一生懸命勉強をするんだぞー」

 結果として、私は、個人サイトも閉じ、書いた小説をひとに見せることはなくなった。中学後半は、たったひとり、いちばんそばにいてくれた友人に見せ続けたのみだった。
 中学の三年間で小説の基礎鍛錬をすませたと思う。短編を10本以上書いて、長編にも挑戦した。
 方法論は、ひたすら、本を読み文章を書いていくこと。指標はなかった。灯火もいらなかった。
 小説を書くことを「夢」と表現する言葉に用はなかった。私はそれでも反抗的な生徒ではなかったし、そういったことをおっしゃる先生がたも、尊敬するところは、尊敬をしていた。感謝をするところは、感謝をしていた。
 それであったうえでなおそう判断をいたした。先生が嫌だったのではない。その考えは、私を損なうと判断したのみである。

 そう。「損なう」。
 中学時代の私にとってそれはひとつのキイワードだった。
「人間はかならず人間を損なうものだから、自分だって生きてるだけで損なっているし、損なわれたときにはその意味をよくよく検討せねばいけない」

 それは、いまもそう思っている。

 そして高校生になった。
 文芸部に入ったから、小説を書いていることじたいを隠すことは難しかった。ただまあこのころには中学のころとは違ってある種の「書いている」という自信ができていたので、そのことじたいは、かまわなかった。

 このときに、いまもお世話になってるとある商業作家さまがたと出会い、たいそういろんなことをアドバイスしていただくこととなる。
 さすが商業の大ベテランの作家さまがたであって、いままでの「おとな」とは、かなり印象が違った。まず言ってくることの根本が違うというかなんというか……(のちに印象とか言ってくることとかいうふわっとした問題ではないし、ほんとにほんとにみなさますごすぎたことはわかるのだけど、それはまた別の話)。

 私は、世のなかに、「小説を書くことで生活をしている」というおとながいることに感動し、
 小説を書くということをけっして特殊なこととしない人間関係的な環境に、またいたく感動した。

 とても感謝をしている。
 そもそもそのあと定期的にかかわりをもたせていただいている、いまに至るまで。ほんとうに感謝なのである。

 そのうえで、なのだが。
 やはり、「若いね」とは、ここでも言われた。
 それは視点が違うのに、中学まで言われたことと文章的な内容は一致するという、一種奇妙な現象であった。

「小説をずっと書いてられると思うな。いまは高校生で、若いから、時間も体力も気力もある。それに文芸部なら周りも書いているから、書こうと思う。進学はする? するつもりなら、大学生のうちもまだいい。書けるかもしれない。
 だが、社会人になって、書かなくなるやつなど山ほどいる。おまえもそのうちのひとりだという可能性はつねにある。書き続けることのできない人間がいかに多いか。若いうちにはわからないかもしれないが」

 私は、ぽつり、と返したような記憶がある。

「……でも、私は、書きたいなあって思ってますし。たとえば才能や能力がなかったとしても、書き続けることだけは、できると思うんですけど。それは自分の意志じゃないですか……」

 みなさまに一笑に付された記憶がある。

「だからね。それが若いってことなんだよ。
 そうやって根拠もないのに自分を信じたいのは、若いからだ」

 私は、ちょっとうつむいた、……かもしれない。
 高校生のその時点で、もう五年以上は書いているという小さな自負はあった。……でも、そんなものは、いまこの場ではなんの意味ももたない。あまりにも、小さすぎて。
 それに、おそろしいのが、……やっぱりそう言われるとすこしは気持ちがぐらつくということだった。
 私も、おとなになって、社会人になれば、書かなくなるのかなあ、と。

 十年先まで書いて早く証明したい。
 そう思ったけど、十年先はそういえばあのときからカウントしたって、まだ来ていない。……それは二十七歳になってからのことであるから。

 けっきょく、私は愚直なまでに書き続けた。
 そして二十歳で拾い上げ、二十一歳でデビュー、そのあとは苦労はしたがずっとずっと書き続け、担当さまにもずっとお世話をしていただく、という道をたどることになる。

 もはや、私が「書き続ける」ということを疑うひとは、ほぼいなくなったと思う。

 つまり。……つまりそういうことなのだ。
 結果的にそれが正しくとも、
 観測されていないこと――今回の場合だったら、高校生の私が書き続けることなんて、そう、とは言えない。
 ……若いというワードが飛び出すしか、ない。

 けれどやはり私はいまだに思うのだ。
 自分よりも年若いひとにそれを言うことはいかほどの益があるのか、と。

 それはどちらかというと自分や自分たちのころのノスタルジアの押しつけではないのか。

 というのも白状すると、私自身が「若くなくはないが、べつに若くもない」というこの微妙な年代、二十代半ばとなって、
 たしかに、十代後半や二十歳ぐらいのひとたちに対して、ふっと「ああ、若いなあ」と思ってしまうことがあるから、だ。

 それというのは彼らにそのまま言ってしまえばたしかに気持ちいいんだよね。
 だって相手さま、「論理的に反論できない」ですから。
 若いということそのものも、未来の可能性も、論理的反論は不可能です。事実だし、可能性だからね。

「若いね、でもいずれこうなるよ」というのは予言なんだよ。
 当たるかもしれないし、でも当たらないかもしれない。
 それが当たってくれと願うのは、
 わずか数年でも先に生まれたものの、傲慢なのではなかろうか。

 なぜおなじ道をたどるなどと無邪気に思えるのか。
 創作においては通俗的にオンリイワン概念が浸透しているというのに。
 それであれば、
 若さというのも、オンリイワンだろう。

 ……むしろ、自戒とうそぶきたい。
 ……自分自身が言われていた時代よりもかえって、ひとさまに対して「若いっ」とふっと思いがちないまとなって、
 それは、はじめて思うことなのですから。

「自分はずっと書き続けます!」と「若い」ひとに言われても、信用できないことがあって、
 でも、それは、そのひとを信用できないというよりは、
 私はその年代だった自分が、いかに「書き続ける」ことでぶれて、怠けて、逃げようとしていたか、
 ……だからすこしでも重なるような要素があると、
 若い、
 って、思っちゃう、ってことじゃないかなあ。

 ……おとなのノスタルジアを受け止めるのが若い人間の役目、というのは、うなずける。

 だが、呪わなくたっていいじゃないか、
 なにも予言をしなくたって。
「若い」というのは、たしかにそういう抽象概念である以上は人間全員に適応できるけど、
 それ以前にそのひとはそのひとだし、
 そのうえで「若い」というならそれは、「いずれこうなるよ」と言うのではなくて、
「いずれこうなる可能性もあるけど、それについてはどう検討をしてる?」
 と、問うたほうが、よっぽどいいと思うのだよな。

 だってそもそも相手さまと自分違う人間じゃない。ねえ?
 おなじ道をゆくよだなんて――まさか私は相手がこわくて言えないんだけど。
 自分より若い人間は、いずれ、世界をつくっていくわけだから。それ以前に、若い人間は、いずればきばき芽を出してくる――かも、しれないのだから。

 引けよノスタルジア、必要なのは後進へのおそれだ。
 ……と、思うのだが、なあ。

 ……そのうえで、「自分の若いころはなあ」なんて酔っぱらった愚痴を聞いてくれる若いひとがいたら、
 それはそれ、ありがたく、ノスタルジアを吐き出して、
 でもそうやって若いひとたちにずうっと相手してもらうにはね、彼らを見くびっちゃ、軽んじちゃ、……把握したつもりになっちゃ、いけないわけです。若いってのはね、こわいんだよ。ね?


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