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【小説】 hair

「ほら座って!前髪がペシャンコになってる!!」
そう言って椅子に座らされると、水で濡らした手で私の前髪を触る。
「根本だけ濡らすの。毛先は濡らさなくていいから」
手際よく湿らせた前髪にロールブラシを当ててドライヤーのスイッチを入れると、ブオーっと耳元で音がする。温かい風が勢いよく流れ出てくるのを肌で感じながら、母はロールブラシを引っ張る。
「こうやってブローすれば癖が伸びるから。ちゃんと家でもやるのよ?」
「わかってるって」
「ロールブラシ渡したでしょう?」
「うん、あるー」
「あと櫛とかブラシも」
「ちゃんとあるから大丈夫」
「髪は命なんだからね!ちゃんと乾かさないと傷むわよ」
「うん、やってるよ」
「ほんとー?ならいいけど」
そういう小言を言われながらも、前髪を伸ばしてくれる母が好きだった。色々一言二言多い母だったけれど、なんだかんだ言いながら伸ばしてくれた前髪が好き。くるんと伸びて漫画のキャラクターみたいにふわふわしてる。
友人には「なんで前髪が浮いてるの?」と邪険にされたこともあったし、嘲笑されたこともあった。それでも、笑顔で答えてた。
「お母さんがやってくれたから」
- 嬉しい気持ちと悲しい気持ち
- 母がやってくれたのだから私に対して文句を言われているのではない
そうやって心の中で逃げていたんだ。
何かにつけて私へ向けられる矢は全て。母という言葉で守ってた。
何でも、母のせいにした。
「何か言われたらママに言われたからって言うの。ママのせいにしなさい」
昔、そう言われた言葉もきっと、母なりの守り方だったんだと思う。
すぐにつけ込まれやすい私を見越して。

いつしか年月が経ち、あっという間に大人になった。
気づけば社会人になり、毎朝通勤電車に揺られるのも板についてきた。
早起きなんて当たり前。遅刻なんてお断り。
そんな日常が当たりを埋め尽くしていく。
私もその日常のコマにもれなく埋め込まれた一人だけれど、毎朝ブローで伸びる前髪を鏡越しに見る時だけは、自然と心も伸びていく気がした。
見た目を意識するのも悪くないのかもしれない。
「ツダさん、髪型決まってますね」
後ろから声をかけてきたタナカくんが笑う。
「ありがとう。今日は上手くいったの」
ふわっと浮いた前髪が揺れる。
今日のプレゼンも捗りそうだ。

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