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【小説】 境界

珍しく午前休を取った私は神保町へ向かった。近々新しい本も読めていないのでその探索の為である。改札を抜けて大通りを進むとあちらこちらで本屋が立ち並んでいて、街ゆく人はどこかせかせかしていた。それもそのはず、平日の午前中だからである。ふらっと適当に入ったお店で立ち読みをすることにした私は、ざっと書棚を眺めて本を手にとる。古い文庫本の一つで、教会について書かれた本だった。深層心理のどこかで「境界」について考えていたのかもしれない。
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「かつて境界とは、眼に見え、手で触れることのできる、疑う余地のない自明なものと信じられていた。しかし、私たちの時代には、もはやあらゆる境界の自明性が喪われたように見える。境界が溶けていく時代、わたしたちの生の現場をそう名付けても良い」
読んだ一文が頭を叩くように響いて離れない。
「すみません、この本いくらですか?」
と問いかけるのにそう時間はかからなかった。お金を支払うと、持っていた仕事用の鞄に詰め込み近くのカフェでサンドイッチを注文する。天気もいいので、せっかくならどこか外で食事も兼ねて本を読みたかったのだ。
「ありがとうございます」
サンドイッチを受け取ると、横断歩道を渡り皇居へ向かう。すれ違う社会人は営業のスーツマンかリュックを背負った学生くらいで誰もいない。一人有意義な時間を過ごせる楽しみでワクワクしていた私はついスキップしてしまった。
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近くのベンチへ腰掛けると風がそよそよふいてきて髪を揺らす。サンドイッチを入れてもらったビニール袋が飛ばないように鞄で押さえたらペリペリ袋を開けて大きく一口かぶりつく。アボカドと卵のいい塩梅がサンドイッチとマッチしていて美味しかった。パクパク続け様に食べ終わると、水筒のお茶を出して流し込む。ぷはっと飲み干すと、ベンチの近くにスズメがやってきておこぼれがないか探しにきていた。ごめんね、食べちゃったのと心の中で謝りながら食べ終わったゴミを片付けると、鞄からさっき買った本を取り出してページを開く。空はいい春日和で雲はふわふわ流れていた。
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人と人との境界とは、目に見えて手で触れることのできる疑う余地のない境界だった。あの人とこの人、その人とこの人と、境界はどこにでも存在する。当たり前のことだ。至極当たり前のことなのだ。家の敷地に侵入することが許されないように、他人のプライバシーをとやかく問いただしてはいけないし、人の物を取ってはいけないように人が使う場所を奪ってはいけないのだ。
こんな当たり前のことが、いつの間にか分からなくなっている人がいる。境界が見えない人が増えている。自分自身も振り返る必要があるかもしれない。それでも、誰だってきっと振り返ることになりそう。そんな気がした。
この「境界」があらゆる場面で溶けていくこの世界をどう再編するのか或いはされるのか、分からないけれど、きっと自分たちが作るんだという心意気や志が大切だと思う。
あまりにも集中しすぎていて時間を忘れていたけれど、ふと腕時計を見ると12時過ぎになっていた。慌てて本をしまい本社へ向かう。
たまには午前休も悪くないなと思いつつ、やっぱり休みは1日欲しいと思ってしまう私だった。

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