見出し画像

天国でも地獄でもない(冬霞の巴里 所感)

冬霞の巴里 ドラマシティ公演
🌸千秋楽おめでとうございます🌸

というわけで宝塚歌劇のお話を。
永久輝せあさん主演 Fantasmagorie 冬霞の巴里

幸運なことに初日から何度か見せていただき、どうしても文章を認めたくなり筆ではなくスマホを手に取った次第です。
ドラマシティ千秋楽公演はライブ配信もあったのでもうそろそろわたしの所感を公開してもいいかな、と。
※多分とてもネタバレするのでまだ見ていない人でいやなひとはここでスクロールをやめてください。


冬霞の巴里
モチーフにアイキュロス著のギリシア悲劇「オレステイア」を使っていると公演解説に書いてあったので、友人に早速借りて読んでから挑みました。

オレステイアの命題である母親殺しという部分について、展開や結末は異なれど、物事の多面性や愛の形について深く考えさせられる作品になっていた気がします。
あとは人物相関についてもオレステイアの内容を知っているとある程度の理解ができた状態で観劇できたので脳がスッキリ整理できました。
ただ何も知らない状態で見ても全く問題ないと思います。

ということで感想を。
ばばっと吐き出すだけなので支離滅裂です。

指田珠子先生の凄さ

これは配信を見た知人と話していたことなのですが、指田先生は「エンタメを創る」に重きを置いてしっかり作り上げてくるタイプの演出家なのだなという話。
どちらが良くてどちらが悪いという話ではないのですが、演出家の方のやりたいこと、作りたいものが先にあって、それをどの演者に任せるか、というタイプの先生も数いる中、指田先生は今回の冬霞の巴里そして前作龍の宮物語と、この演者だからこれを創る、というスタンスが感じられてワクワクしました。なんだかすごく演者を観察して(そしてファンの見たいスターの姿さえも把握しているのでは…?♡)、お話を作り上げてきてくださっている感じがして。
もちろん作品全体には大きなテーマとメッセージ性があるのだけど。

演出家が信頼して任せてくれる演出家の作りたいお役も、演出家がこの人にはこれを、と作ってくれたお役も、どちらもいただけたら役者は嬉しいだろうけど、わたしは指田先生この作る他の人の世界も見てみたい…!とすごくすごく思いました。

モチーフとしてのオレステイア

宝塚って、歴史モノをそのまま演じるイメージがおそらく強く根付いていると思うのですが、今回はオレステイアをそのままギリシャを舞台として舞台を作り上げるのではなく、別の時代、今回でいえばフランスのパリ、ベル・エポックの時代へと舞台を変えています。
ベル・エポックといえば産業革命が進んで街に百貨店ができ、消費文化が栄えることで最終的に1900年にパリ万博が開催された、非常にパリが華やかににぎわっていた時代。しかしその産業革命と人々の消費活動の裏では、貧富の差の更なる拡大と前後の時代の戦争が影を落とす時代。
宝塚の直近の上演でいえば月組さんのピガール狂騒曲と同じ時代、あちらの作品は明るいパリの街を舞台としていましたがそれでも上記のような生活の不安定さやパリの陰と陽の部分は垣間見え、ピガール狂騒曲も冬霞の巴里も「舞台芸術への陰り」は色濃く描かれていたように感じます。

オレステイアの舞台であるギリシャも、トロイア戦争など度重なる侵略と戦争の合間のつかの間のギリシャの栄光の時代、そんな部分に共通性を見出して、指田先生は舞台を1900年前後のパリにしたのかなあ、などと考えていました。
(ただし私のトロイア戦争の知識はほぼ映画の『トロイ』で占められています。オーランドブルームが格好良い。)

そして先述の通り、オレステイアをモチーフとしていながらも結末は全く異なり、作り方がすごく面白いなあと思いました。結末こそモチーフに一番影響されていそうなのに。オレステス(※オレステイアの主人公)は叔父を殺して、母を殺すことで敵を討って、最終的に復讐され返す、いわば非常にドラマチックな結末を迎えるけれど、冬霞の巴里の主人公オクターヴはそうではありませんでした。単純に悲劇としてよりドラマチックに終わらせる「原作通り」の展開も可能だったけれど、そうではなく復讐をやめ、絶望の先の霞の中で生きていくというこの余白たっぷりの結末、その答えは観客それぞれにゆだねられているのだなあと感じて、なんだか少しうれしくなりました。

人間の多面性

もう既にいろいろな方が書いているのを見たのですが、この作品が伝えたかったことの第一は「人間や物事の多面性」なのだろうなと私も思っています。(もちろん正解はわからないけれど)

息子オクターヴにとって大好きだった父親オーギュストは、妻にとっては娘を殺し自分の子供を押し付けてきた人でなし、弟にとってはずっと自分を虐げてきた横暴な兄、娘イネスにとっては自分を道具のように扱う義父、アンブルにとっては、、、
解釈はいろいろあれど、同じ人物を眺める方向によって全く違う影が見える、それがお互いに目の当たりになった時、自分の信じていたものがいきなり得体のしれないものになってしまう不安感と不快感たるや。
私の日常生活のちょっとした認識違いでさえそうなのだから、いわんや復讐に長年身を燃やしてきたオクターヴの状況をや。

精神的にぎりぎりのところで生きているオクターヴの瞳の揺れと光の入れ方、お芝居の作りが精工で私は客席でずっと目を見張っていました。。。

愛とは

もう一つ感じたことは、愛って色々な形があるなあということ(なんか恥ずかしいな)です。

特筆すべきは主人公オクターヴとその姉アンブルの関係性。
お互いがお互いのことを愛しているのは自明なのだけど、
姉は「血縁関係が無いと一緒にいられない(姉だから一緒にいてくれている)」と思い、弟は「血縁関係があると一緒にいられない(姉はいつか他の男と結婚してしまうから弟ではなく男になりたい)」と思っているので、一生話がかみ合わない。(もしも血がつながっていなかったら~の歌の歌詞が違っていてつらい)

余談ですがこの2人の考え方、女性の母性の強さと、男性の支配欲の強さをよく表しているなあなどと思いました。オキシトシンとテストステロンの関係なので仕方ないのですが。。。

でもそもそもこの2人は【父を殺した母を憎むこと】を共通命題として一緒に行動しているので、復讐を続けないと愛する人と一緒にいられないと思っていそう。
共通のものを憎む気持ちが、運命共同体のような感覚に代わって、お互いのことを好きだと思うようになったのかな。。。と私は感じていました。

そしてクロエとギョームも、同じように共通のものへの憎しみがもとで一緒に過ごすようになって寄り添うという構図。お互いを思う気持ちは果たして好意といえるのか未熟な私にはわからないけど、いつまでも終わらない憎しみの連鎖の中で「秘密」を共有している者同士、縋って生きていくしかないのかなあと、最後に闇に消えていくクロエとギョーム、そして霞の中に消えていくオクターヴとアンブルの同じ後姿を見ながら呆然と考えていました。

愛情の裏返しは無関心だもんね、憎しみを抱くほどに相手に関心があって、むしろその対象(母親であるクロエ、そしてオーギュスト)から愛されたかったんだろうなと思うと胸が切なくなります。

そしてこれらが普遍的でいつどこでも起こりうることだというメッセージとして、オレステイアを時代も場所も変えた冬霞の巴里という作品として作り上げてくださったのかなと思っています。

他にもいろいろと気になる愛情の矢印やキーワードが作中にちりばめられていて(オーギュストを取り巻く矢印の方向や、イネスの「本当に好きな人」、ヴァランタンの本心など)いろいろと考える余地がありすぎます。ブリリアホールで見れたらもっと頭の中が整理できるようになるのかな。。。


長くなったので続きはまた後日。まだまだ分からないことだらけ!

何も始まらない、何も終わらない、天国でも地獄でもない


この記事が参加している募集

#舞台感想

5,891件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?