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死に顔

 少し前だが、祖父が死んだ。

 肉親を失うということが私にとっては初めての経験で、特に私は臨終に立ち会えなかったので、「祖父が死んだ」と聞かされても数日間は実感がわかずに、いまひとつよく分からなかった。もちろん悲しかったし1人で泣いたが、人が死んだ事実を受け入れるという事実自体が、よく分かっていなかったように思う。

 5日後に通夜があった。葬儀場に行くと、祭壇の前に台があり、その上に白い布団が敷かれ、祖父が横たわっていた。その遺体を見て、やっと、祖父は死んだという事実が形となって目の前に現れた。祖父の頬にそっと触れると、冷たかった。生きていたら感じられるはずのぬくもりが全くなくて、その冷たさにショックを受けて泣いてしまった。そのときにようやく、祖父の死を感じた。ああ、祖父はもういないのか。

 通夜の前に、ごく近しい身内だけで「納棺の儀」というものを執り行う。祭壇の前で横たわる遺体を、白装束に着替えさせ、化粧を施して、棺に納める行為だ。映画「おくりびと」で観たな、と思いながら、天国への見送りをするための儀式を済ませた。祖父の死に顔は穏やかで、眠っているようで、苦しんだような痕跡はなかった。私は祖父の表情を、しっかり目に焼き付けてお別れを言って、棺桶の蓋を閉じた。

 その後、2日間にわたり通夜と告別式を終え、火葬場で見送り、納骨をして、祖父の家に祭壇を設けた。終わる頃にはクタクタで、私たち一家は電車に2時間揺られて、帰宅した。

 葬儀には遠方から来た親戚もいたので、一応親戚一同の集合写真を撮った。それを2つ年上の、29歳の従兄弟にラインで送った。「集合写真などを送ります。伯父さんにも送っておいてください」と。

 すると、従兄弟から返信があった。「ありがとう、俺が撮った写真も送るね」。食事会の写真でも撮ったのかなと思って送られてきた写真を開くと、それは、棺桶に入る前と入ったあとの、祖父の顔写真だった。

 思い返したら、私が祖父の冷たさにショックを受けている横で、従兄弟はなんだか祖父の顔にスマホを向けていた。

 私は送られてきた写真を見て、とてつもない不快感と衝撃に襲われた。
 普通、倫理的に考えて、亡くなった人の顔写真なんて撮るかしら。なんでもかんでもスマホ1つで簡単に記録できて写真も撮れる時代だけど、だからって、愛する人の死に顔を写真に撮って永遠に残そうとする神経が私には理解できなかった。

 死に顔は、残された人の心にとどめておくものだ。
 本当ならその人を思い返したときに、楽しかったときの思い出とか、一緒にいたときの笑顔とか、そういうものが真っ先に浮かぶはずなのに、死に顔を撮ったことによって、その印象が強まってしまう。
 故人も自分の死に顔が永遠に残されるとなれば、安心して成仏できないのではないだろうか。祖父が天国でモヤモヤしていると思うと、やりきれない。

 しばらくして、祖父の葬儀の夢を見た。夢の中で見た祖父は、あの写真の死に顔をしていた。夢で逢えるなら、元気なときの笑顔で逢いたかったのに。

 従兄弟に苦言を呈しても角が立ちそうなので、返信せずに放置した。この考えは、私が古いだけなのだろうか。

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