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難聴エッセイ | 文字がくれる、安心感


難聴あるあるかもしれない。



文字が好きだ。



読書家、本の虫、というのとはちがくて…(憧れるけれども)。
好きというより、文字を「信頼している」と言った方が近いか。


小学生のとき。
誰もが敬遠するクラスの新聞係に喜んで立候補しては原稿を、演劇クラブのオリジナル台本を、友達と一緒に漫画を、自分で考えた物語を(未完)、ひたすら、ひたすら何かを書いていた気がするなあ。

中学生。
授業では教科書を隅から隅まで読み、板書をそっくりそのままノートに写し、ひたすら目と手を動かし続けていた。
家に帰ると、その日とったノートをわざわざ綺麗に書き直していた。カラーペンを駆使し、イラストや図表なんかも書き加えたりして。誰に見せるためでもなく、ただそうしたいからやっていた。

日記もずっと書いている。毎日だったり時々になったり、「仕事ノート」になったり「育児日記」になったり、ノートに手書きしたりスマホのメモになったりと、これといった決まったやり方はないけども、今に至るまでざっと20年、書き続けている。


形なく流れていってしまうものを、つなぎとめたい。

いつでもまたそこに返れるように。

今書き残さないと、もう思い出せないかもしれない。

そんな衝動が、あったのだと思う。



なぜか。
難聴との関係は、「ある」と思う。



文字には、聴こえないとか、聴き漏らすということがないから。


小学生のときには自分の難聴をまだしっかり自覚できていなかったはずだけど、無意識に「聴くより読む方が分かる」って思ってたのだと思う。
「聴いて理解する」経験を積めなかったから、必然的に「話して伝える」のも上達していかなかったのかなと。おそらく。



ほんとうは、おしゃべりだって大好きだ。

話し言葉には、その人の人柄や価値観がにじみでると思う。だからその人のつかう言葉を一言一句知りたいのに。少しも聴き漏らしたくないのに。聴こえたら、その人のことをもっとよく知れるし、その人の話の中に私の知らない世界が広がっていると思うのに。

でもどんなに耳を澄ませても、耳の中をほじくり返してみても、私の耳は音声をぽろぽろととりこぼしてしまう。
話し言葉はふわふわと拠り所がなく、見えない力(ニュアンスとか)が次々にはたらいて、あっという間に変わっていき消えていく。

それでもなんとか話についていこうと、目と頭と頼りない耳をフル回転。口形を読みながら、聴きとれた言葉から前後の文脈を予測する。

あらゆる相槌を駆使して持ちこたえ、これは…どうやらあの話のことか? とやっと掴みかけたときには、もう話題が変わっていて、あっけなく振り出しにもどる。
話題に沿って自分の話をするなんて、相手の話を深ぼる質問なんて、、、高度すぎるぞ。


コミュニケーション能力の高い人は聞く力が高い、系の本ってたくさん出版されているけれど、
私の場合はそれ以前なのだと落ち込んだ。まず聴くことが、一大事なのだよ。



その点、文字なら。



文字ならばちゃんと途切れずに届けてくれる。
揺るぎない意味を伝えてくれる。確かめ合える。

ゆっくり読んでもいい、あとで落ち着いたときに読んでもいい、自分なりの理解にたどりつくまで何度でも読み返していい、分からない言葉があったら調べていい。
理解する速度が自分に委ねられている。

そしてゆっくり好きな言葉を選んで、返せばいい。


だから、できるかぎり受け止めたい。
せっかく私にも情報が開かれているのだから、残すことなくつかみたい。



聴こえにくいからこそ、ちゃんと知りたいのだ。

(良く聴こえる耳をもっているのに「え、きいてなかった〜」と言う人の気が、本当に知れなかった。笑
私が聴きたくても叶わないものを、どうしてそんな簡単に放り出せるのかと…。でもきっと聴くって、すごく曖昧なことなんだろうな。)


私にとっては文字が、いちばん安心して情報をやりとりできる手段。

そして、私にとっては書くことが思考を整理することであり、表現することであり、人に伝えることでもある。

知らない言葉も読めない言葉もたくさんたくさんあるけども、
私はこれからも読み続ける。書き続ける。



にたような感覚のある人、難聴の人もそうじゃない人も、いるかしら!



中等度難聴に生まれてなんやかやをエッセイにしています。
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そのほかの記事も、マガジンにひとまとめにしてあります。

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